山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第6章)

6.幻の逆襲戦

 関東軍司令官は自今ノモンハン方面(ハンダガヤ付近を含む)に於ける
 ソ蒙軍との戦闘行動を停止すべし。
               ―大陸命第357号・1939年9月16日13時10分―

 ノモンハン事件で活躍した日本の戦車部隊として戦車第3連隊と戦車第4連隊の2個が有名ですが、当時の関東軍には戦車連隊がもうひとつだけありました。1937年5月に創設され、翌年に満州へと移駐した戦車第5連隊です。他の2個連隊とともに第1戦車団(長:安岡正臣中将)を構成していました。映画「西住戦車長伝」で知られる戦車第5大隊と部隊番号は共通していますが、特に歴史的繋がりはありません(注1)。
 ノモンハン事件の2か月前にあたる1939年3月の編制は、人員定数604人に対し実数は約400人、装備車両は八九式中戦車甲24両・同乙2両・97式中戦車12両・軽装甲車15両などとなっています(注2)。最新鋭の97式中戦車が、他の2個連隊に先んじて配備されているのが注目に値します。人員の大幅な不足は、定数が前年11月に比べて約200人増えたのに対し、補充が間に合っていなかったためでしょう。ノモンハン事件が始まった後の6月末時点では、装備が89式中戦車22両・同乙1両・97式中戦車16両・軽装甲車20両となり、人員のほうも定数に達しています(注3)。

 1939年6月の第二次ノモンハン事件勃発に際しては、第1戦車団基幹の安岡支隊が出動しますが、戦車第5連隊だけは転属間もない兵が多く実戦に堪えなかったためか残置されました。御承知の通り、安岡支隊は当時史上最大規模の戦車戦を展開しますが、いまだ戦闘の続く7月上旬には戦場離脱が検討され、結局は7月下旬に帰還します。
 安岡支隊が早期引き揚げとなった事情として、当時の第1戦車団が、「昭和14年度在満軍備改編要領」に基づく大規模な改編作業の最中であったことが挙げられます。母体となる貴重な戦車部隊が消耗しては、将来に禍根を残すおそれがありました。予定された改編の内容は、戦車第3連隊が戦車第9連隊、戦車第4連隊が公主嶺学校の戦車教導隊、そして戦車第5連隊では戦車第10連隊・第11連隊の新設をそれぞれ担当するというものです。これにより、関東軍の戦車部隊は6個戦車連隊体制に倍増する計画でした。特に戦車第9連隊の編成は8月1日に期日が迫っていました。
 ノモンハンから帰還した部隊では、さっそく人員や装備の損失補充に取り組んでいます。例えば戦車第4連隊では、軽装甲車中隊(第5中隊?)の人員を補充や改編に充てようとし、中国戦線の独立軽装甲車中隊への補充用に取り上げないでほしいと希望しています(注4)。同連隊では約150人もの熟練戦車兵が死傷していました。7月28日には、第1戦車団の応急動員用として、珍しい装備である指揮戦車が追加されることになっています(注5)。なお、第1戦車団長の安岡正臣中将は8月1日に更迭、木村民蔵中将が着任しています。

 安岡支隊の撤収後、8月20日にノモンハンの戦況は急変します。ソ連軍が全面攻勢に出て、日本軍を包囲したのです。軽戦車2両・装甲車20両程度とほとんど装甲戦力を持たず機動力の乏しい日本軍は、ソ連の機械化部隊に翻弄されました。日本側に火消しに使える機甲戦力が多少とも残っていれば、ソ連軍もここまで大胆な包囲作戦は試み難かったのではないかとも思われます。
 日本の関東軍は、あわてて大規模な増援部隊の派遣を決定します。第2師団・第4師団を主力に、対戦車用として速射砲や車載山砲などを満州中からかき集めようとしました。火炎放射機と対戦車地雷・手榴弾・煙幕弾を大量装備した、対戦車肉薄攻撃用とおぼしき独立工兵小隊3個も特設されています。そして、今度こそ、いまや関東軍で唯一無傷の戦車部隊となった戦車第5連隊にも声がかかったのです。
 戦車第5連隊の派兵計画は、3個中隊(各97式中戦車7両・95式軽戦車3両)を自隊の人員装備で編成するほか、戦車第4連隊の残存戦力から編成した軽戦車中隊(95式軽戦車13両)を第4中隊として加えるというものでした。材料廠にも予備戦車若干(注6)。もしかすると、前述の指揮戦車も持っていくつもりだったかもしれません。2個連隊合同のうえ、新設予定部隊の基幹要員として差し出し予定の将兵80人まで投入した全力投球でした。

 しかし、大本営は、ノモンハン事件の終結へと動いていました。8月30日に終結意図を現地へ通知した大陸命第343号を皮きりに、9月3日には明確に攻勢中止を求めた大陸命349号を下達します。関東軍は、戦場掃除名目で戦闘を続けようとしますが、9月7日に関東軍司令部の主要職員が一斉に更迭され、完全に反抗作戦は中止となりました。翌9月8日のハンダガヤ方面での作戦など若干の攻撃が辺縁部で行われますが(別記事参照)、戦車第5連隊が砲火を交える機会はありませんでした。最終的な停戦命令の大陸命第357号は、9月16日に発令されています。
 さらなる出血を免れた戦車部隊の拡張は、予定通りに進められました。翌1940年3月には第2戦車団が創設されて、関東軍戦車隊は2個戦車団=6個戦車連隊体制となっています。
 その後、日ソ中立条約締結の一方、日本陸軍は演習名目の大動員「関東軍特種演習」(関特演)を実施するなど、宿敵ソ連との戦いに備える日々を続けましたが、日本は南進論の採用により太平洋戦争へと歩むことになります。関東軍の戦力は南方へ、日本本土へと次第に抽出されて弱体化。日ソ開戦は夢見た先制攻撃の形ではなく、無残な退却戦として実現するはめになりました。かくて関東軍がソ連軍に対して復讐戦を行う日は訪れなかったのです。(この章終わり

注記
1 戦車第5大隊は日中戦争初期の1937年8月に動員された特設部隊で、1939年6月まで中国戦線で転戦を続けました。同時期に編成された戦車第1・第2大隊がいずれも戦車連隊に改編されたのと異なり、連戦による損耗が激しかったためにそのまま解隊されました。

2 「人馬現員表提出の件」(JACAR:C01003473400)

3 「人馬現員表提出の件」(JACAR:C01003501800)

4 「戦車第4聯隊軽甲車隊の人員充用に関する件」(JACAR:C01003495800)

5 「兵器特別支給の件」(JACAR:C01003490700)

6 「戦車第5連隊及独立工兵小隊編成に関する件」(JACAR:C01005956100)
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