山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第2章・前編)

2.続・方面軍に唯一つ

 客、水を絶(わた)りて来たらば、これを水の内に迎うる勿(な)く、
 半ば済(わた)らしめてこれを撃つは利あり。
                  ―「孫子」行軍篇―

 前節で述べたように、インパール作戦が中止されてニンソウコンからの撤退を開始するに際し、戦車第14連隊は、前線到達済みの装甲車両を材料廠の95式軽戦車1両を除き処分しました。ダグインしてトーチカ化した状態で使用していたため、長距離自走は不可能になっていたのでしょう。
Battle_Imphal_map しかし、実は連隊の保有戦車は、まだ完全になくなったわけではありませんでした。転進途中で遅れていた車両がわずかながら残っていたのです。チュラチャンプール南の48マイル道標に97式中戦車改3両をはじめ、チッカ(チュラチャンプール=トンザン間)に95式軽戦車1両、トンザンにM3軽戦車が1両と砲戦車小隊(97式中戦車・1式砲戦車各1両)、ほか詳細不明ながら95式軽戦車と97式軽装甲車がさらに1両ずつは残っていたようです(注1)。
 戦車その他の重装備も可能な限り回収せよとの第15軍の命令に従い、連隊の残存将兵は稼働車両をなんとか持ちかえろうと努めました。ですが、努力もむなしく、ニンソウコンから唯一引き上げた材料廠の軽戦車はトルブン付近で空襲により失われ、チッカにいた軽戦車も同様に破壊されました。48マイル道標にあった中戦車3両も、マニプール川にたどり着くまでに2両が故障脱落しています。残る1両は、9月12日に工兵隊の必死の門橋運航でマニプール川を渡河するものの、ティディム目前で故障放棄となってしまいました。
 結局、11月上旬にインダンギーまで帰りつくことができたのは、ゲリラと交戦しつつ先行していた砲戦車小隊など97式中戦車改・1式砲戦車・95式軽戦車・97式軽装甲車1両ずつの計4両だけでした(注2)。うち97式中戦車改はセルモーターの不調でエンジンがかからず、砲戦車による牽引始動が不可欠な状態だったそうです。途中、路上でエンストしてしまい、泥を塗りたくって敵機の目をごまかすきわどい場面もありましたが、これら4両だけはチンドウィン川を渡ってシュエボ西方のチバ村まで帰還することができました(注3)。

 戦車第14連隊は、イラワジ川東岸マンダレー付近で部隊の再編成に入ります。新任連隊長の相沢卓司中佐も10月にビルマ入りして、合流していました。少年戦車兵学校の第4期卒業生や、空路到着した新任少尉4人などの人員補充もされています。
 肝心の戦車は、各種あわせて20両少々が配備されました。インパール作戦の生き残りのほか、満州に引き揚げた戦車第1連隊の残置車両を再整備したものなど中古車も多かったようです。主力の97式中戦車は57mm砲装備の短砲身型も混じり、インパール作戦前に比べて質量ともに戦力低下の甚だしきがあります。
一式砲戦車_戦車第2師団_機動砲兵第2連隊 再建された連隊の編制は、連隊本部以下、第1中隊・第2中隊(各97式中戦車改6両)、第3中隊(95式軽戦車5両)、第4中隊(57mm砲装備の97式中戦車3両)、材料廠となっています(注4)。連隊本部と材料廠の詳細は未確認ですが、1式砲戦車が1両だけ残っていたことは確かです。(左画像は1式砲戦車の参考画像。フィリピンで鹵獲された戦車第2師団機動砲兵第2連隊の装備)

burma_map2.png 遠からざると予想されたイギリス軍のビルマ反攻に対し、日本軍は、第15軍(第15師団・第31師団・第33師団・第53師団)によりマンダレー付近のイラワジ川屈曲点で決戦を試みる「盤作戦」を計画していました。これは、北部ビルマで第33軍(第18師団・第56師団)が援蒋ルートを遮断する「断作戦」及び、南部ビルマで第28軍(第54師団・第55師団)がバセインやラングーン防衛戦を行う「完作戦」と連動した作戦でした。予備兵力としては第2師団と第49師団が残っています。
 しかし、決戦兵団の第15軍は、インパール作戦の傷から立ち直ることができないでいました。日本の歩兵師団は戦時編制なら2万人近くなるはずのところ、各師団とも5千人程度の人員しかなく、火砲も10門強と正規の1/3以下しか無かったのです。大隊数を減らすなどして、なんとか戦略単位の形を残している有様でした。
 再建された戦車第14連隊は、この第15軍の直属部隊とされ、イラワジ会戦に臨むことになります。

 一方、イギリス軍も、日本側の予想通りイラワジ川屈曲点からの渡河反攻を考えていました。主力をチンドウィン川とイラワジ川上流部に挟まれた地域から渡河させるとともに、マンダレーの北及びチンドウィン川合流点の下流ニャングNyaung-U(ニャウン・ウー)付近でも渡河を行う計画でした。当初はイラワジ川西岸で日本軍に迎撃され会戦になると想定していたようですが、大規模な迎撃が無いと見るや、一挙に渡河してメイクテーラまで侵攻する方針に切り替えました。
curseofscotland.jpg 侵攻部隊のイギリス第14軍の総兵力は、6個歩兵師団・3個歩兵旅団、それに第254インド戦車旅団と第255インド戦車旅団の2個戦車旅団その他を数えます。装備戦車はM4中戦車を主力に、M3中戦車やM3軽戦車など。その中には、日本軍のビルマ侵攻時に唯一ビルマを脱出できたM3軽戦車「スコットランドの呪い号Curse of Scotland」(右画像)が、指揮戦車に改装されて加わっていました。そして、航空戦力では圧倒的に優勢でした。(つづく


注記
1 「戦車第十四聯隊戦記」・392~393頁・459頁。

2 「戦車第十四聯隊戦記」・403頁によると、トンザンにいたM3軽戦車は、第33師団情報参謀の岡本少佐が連絡用に使用してティディムに向かったとあるが、以後の消息不明。

3 「戦車第十四聯隊戦記」・459頁。

4 野尻忠邑少尉の回想。
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