山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第2章・中編)

2.続・方面軍に唯一つ(承前)

ビルマで鹵獲された98式装甲運搬車 イギリス軍は1944年12月、機動戦に適した乾季の訪れとともに、チンドウィン川を越えて進軍しました。そして、イラワジ川西岸での決戦を日本軍が回避したのを見ると、遅退戦闘を試みる日本軍第31師団・第33師団の各一部を撃破しつつ、イラワジ川渡河へと向かったのです。早くも1月11日には、チョウミョウKyaukmyaung(マンダレー北方60km)とタベイチンThabeikkyin(同84km)で第19インド師団と第254インド戦車旅団が渡河に着手していました。(右画像はマンダレー北方70kmのシングー付近で鹵獲された98式装甲運搬車。詳細は注1
burma_map2.png 盤作戦を発動した日本の第15軍は、イラワジ川東岸に戦力の集中を図ります。戦車第14連隊も、1月中旬には、イラワジ川屈曲部での敵軍渡河に備えるため、移動を開始しました。橋頭堡が未完成なうちに粉砕する打撃力として期待されたのでしょう。
 しかし、イギリス軍も易々と半渡を撃たせてはくれません。優勢な航空戦力で、日本軍の反撃戦力を事前に潰して回っていました。戦車第14連隊もキャウセKyaukse(チャウセ、マンダレー南方42kmの鉄道駅)にいた1月31日、B-24爆撃機隊に出くわしてしまいます。この空襲で、最強火力を有する1式砲戦車は砲身を弾片でえぐられて無力化、人的損害も多数を生じます。砲戦車の修理のため、やむなく材料廠からラングーンに資材調達班が送り出されました。
 連隊は移動を続け、2月1日には、第15軍戦闘司令所のおかれたミヨサMyotha北方に布陣しています。

 2月12日、マンダレーとチンドウィン川合流点の中間地ミンムMyinmuでも、イギリス軍は第20師団の第32旅団と第100旅団を先頭に渡河を開始しました。迎え撃つは第31師団の歩兵第124連隊で、橋頭保に対し果敢に夜襲を繰り返します。戦車第14連隊も勇み立ちますが、なぜか、なかなか出撃命令が下りません。この時点でなら、戦車などイギリス軍の重装備は渡河ができていませんでした。日本の戦車兵たちは、好機を逸したと歯噛みして悔しがっています。
 2月15日夜にようやく出撃命令が出ます。といっても第1中隊の97式中戦車改3両が前進し、歩兵に協力して砲撃を行った程度にとどまります。翌朝、出撃戦車のうち1両はイギリス軍機に発見され、ロケット弾で破壊されてしまいました(注2)。
AWM_P02491013.jpg 2月19日、今度は中戦車の主力を投じて夜間砲撃を行いますが、これに対するイギリス軍のしっぺ返しが強烈でした。翌20日の早朝から、RAF第20スコードロンに属する対地攻撃装備のハリケーン戦闘機(右画像)が飛来し、ポンガドウPaunggadaw(パウンガドー)という部落周辺に疎開中の戦車を襲ったのです。イギリス軍機は、獲物を探して低空で旋回し、擬装が不十分だった最初の1両を見つけ出してしまいます。たちまち猛禽の群が子羊の頭上に舞い降り、芋蔓式に発見された10両がロケット弾と機関砲により破壊されてしまいました(注2、注3)。履帯の跡を消すなど徹底的な擬装で難を逃れたものもありましたが、連隊の戦力の過半数が失われたことになります。
 このようにイラワジ河岸ではあまり良い所のなかった戦車第14連隊ですが、第31師団の諸部隊と連名で感状をもらっています。

 さて、マンダレー北方やミンブ周辺で日本軍が応戦する間に、戦局は激変していました。イギリス第4軍団(第7インド師団・第17インド師団・第255インド戦車旅団ほか)が、2月13日、ニャング付近でイラワジ川を渡河すると、日本側兵站基地メイクテーラMaiktila目指して突進を始めたのです。(左画像)
メイクテーラへ進撃するM4シャーマン中戦車 このニャング周辺の日本側防衛担当は第15軍ではなく第28軍で、独立混成第72旅団とインド国民軍第2師団という脆弱な戦力しか配置されていませんでした。しかも、下流のエナンジョン油田を重要防衛目標としており、メイクテーラが狙われるとは想定しなかったようです。2月24日になって、第53師団の捜索第53連隊が大規模なイギリス軍機械化部隊のメイクテーラ進撃を察知する偵察部隊らしい手柄を立てますが、この報告も緬甸方面軍司令部までの伝言ゲームの過程で「敵機械化部隊2000両」から「敵機械化部隊200両」と十分の一に変わってしまい、対応が後手に回る結果となります。
 メイクテーラ守備隊は兵站部隊・飛行場部隊中心の割に善戦しましたが、3月5日までに街を放棄します。救援に駆け付けた山砲兵第49連隊の先鋒大隊は、新兵器のタ弾(成形炸薬弾)を使ってイギリス戦車を相当数撃破したようですが、大隊長以下全滅しました。

 日本側は、メイクテーラ奪還を決意し、ビルマ北部の第49師団や第18師団のほか、第33師団・第53師団の各1個連隊などを呼び寄せました。戦車第14連隊(残存戦車9両?)も、第18師団に配属されて参加することになります。反撃の指揮権は、第15軍から第33軍に移譲されました。
 メイクテーラへ転進途中の3月7日、エジョウ付近に差し掛かった第1中隊の97式中戦車改2両は、イギリス軍部隊の接近に気付き、随伴歩兵約30人とともに迎撃態勢を取ります。現れたのは、M4中戦車8両とトラック12両から成る機械化部隊。2両のチハは、待ち伏せに気付かないイギリス軍車列を距離200mまで引き付けると、側面から徹甲弾を叩きこみます。初弾は外れてしまいますが、連射した砲弾は先頭と次のM4中戦車に命中し、2両とも炎上させました。奇襲を受けたイギリス軍は、あわてて応戦しつつ退却します。チハも1両が直撃を受けて破壊されてしまいましたが、優勢なM4中戦車を見事に撃退したのです(注4)。この戦闘に言及したイギリス側文献には未だ接しませんが、日本の戦車隊がM4中戦車に勝利した数少ない戦例と思われます。(つづく

注記
1 撮影時期は1945年2月。写真で車体に乗っているのは、第6ラージプート歩兵連隊のイギリス兵。この98式装甲運搬車の所属は不明であるが、付近には第53師団の歩兵第119連隊などが展開していた。「帝国陸海軍の戦闘用車両」(戦車マガジン別冊、デルタ出版、1992年)・116頁掲載の別アングルと思しき写真では、「★岡231」のナンバープレートが確認できる。「岡」が部隊長の氏名の一部であるとすれば、岡田大佐を連隊長とする歩兵第128連隊の機動砲小隊(47mm速射砲小隊)の装備ではないか。

2 「戦車第十四聯隊戦記」・484頁。

3 イギリス軍では、戦車13両撃破と判定していたようである(アレン・316頁)。

4 「戦車第十四聯隊戦記」・496~497頁。
Comment
2011.07.08 Fri 21:57  |  Hikasuke #EPuAl4EM
戦車第14連隊って、爆撃で10両がお陀仏になったあともがんばっていたのですね。


>「敵機械化部隊2000両」から「敵機械化部隊200両」
Wikipediaの記事[イラワジ会戦]を書くさいに調べましたが、みんな罪を擦り付け合っていてなんとまあと。
  [URL] [Edit]
2011.07.08 Fri 23:32  |  山猫男爵 #-
宛:Hikasuke様

Wikipediaの記事も参考にさせていただきました。
出典情報がWikipediaには珍しく(失礼)きちんとした記事で、お世話になりました!!

ひとケタ減っちゃった話の周辺は本当に酷いですね。
通信兵が復号ミスったんだろうとか、それは暗号の構造上ありえないから、誰かが親切心で「訂正」したんだろうとか。
  [URL] [Edit]







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