山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第2章・後編)

2.続・方面軍に唯一つ(承前)

 3月12日薄暮、メイクテーラ(メイッティーラ)北東に集結した戦車第14連隊は、第18師団の歩兵第55連隊に協力して奪還作戦を開始します。攻撃目標は、メイクテーラ北湖の東側(市街地から見て北東)に位置する「湖東台」地区。その任務は、鉄条網を破壊して歩兵の突破口を開くこととされました。野戦重砲第3連隊の制圧射撃に続き、日本戦車はイギリス軍陣地の第一線に突入、首尾よく鉄条網を踏みにじります。すかさず歩兵も突入し、湖東台の一角は日本軍の手に落ちました。
 3月15日にも日本軍は夜襲を実施し、戦車第14連隊も参加して一定の成功をおさめます。しかし、着任間もない連隊長の相沢大佐が、徒歩視察に出た際に狙撃されて重傷を負ってしまいました(注1)。相沢大佐は兵站病院に後送されることになり、またも戦車第14連隊は連隊長を失ってしまったのです。その後、相沢大佐は、さらにタイへトラックで移送される途中、空襲に遭って落命しました。
 連隊は、連隊長代理の中村大尉の下で、戦い続けます。夜は出撃して鉄条網を蹂躙して歩兵の進撃路を開き、昼はたいていは後方に疎開して整備と補給を受けます。場合によっては、昼も前線陣地に歩兵と留まり、防戦に努めました。湖東台地区にはインパール作戦で馴染みのある第33師団歩兵第214連隊が進出し、歩戦協同作戦を展開していました。「敵戦車が来たら頼みますよ」と歩兵に頼りにされていたといいます。当の戦車兵たちは、97式中戦車改でM3軽戦車を撃破することは可能だが、M4中戦車と戦うのは厳しいと考えていたようです。ある戦車隊の少尉は、敵のM3軽戦車数両を射撃するチャンスがあったのに木の枝が照準口を邪魔して逃してしまったのですが、あとから考えれば中戦車や空襲の反撃により壊滅しないで済んだので、運が良かったと回想しています(注2)。
 一方、イギリス軍歩兵にとって、予期しない日本戦車の襲来は脅威であったようです。飛行場を守備していた第5インド師団に関する戦記“Ball of Fire”は、3月24日夜の日本戦車襲来について記録しています。イギリス兵たちは、最初は友軍戦車と誤認しており、日本戦車は悠々と鉄条網を破壊してしまったといいます。イギリス兵たちは恐怖に身をすくめていました。ただ、イギリス兵の見た感じでは、その戦車は、実は道を間違えて迷い込んできたのではないかとも思えたそうです。まもなく日本の歩兵が攻めてきましたが、こちらは機銃と砲撃で20人以上の死体を残して撃退されました(注3)。

 メイクテーラの激戦は2週間以上に及び、一時は日本軍が飛行場の一角を制圧し、イギリス軍の後方連絡路も遮断して孤立させました。しかし、戦車と航空機の強力な支援でイギリス軍は解囲を成功させ、日本軍を追い詰めます。3月27日、28日と湖東台の日本軍も猛攻を受け、うち27日の戦闘では戦車第14連隊の戦車1両が失われています。この戦車の詳細はわかりませんが、現在のメイクテーラに97式軽装甲車の残骸が展示されており、あるいはそのときの被撃破車両かもしれません。
95式野戦力作機 3月28日、日本軍はメイクテーラの奪回をとうとう断念します。戦車第14連隊は、メイクテーラ東方のサジThaziを経てメイクテーラ=ピンマナ間のピヨベPyawbweに撤退しました。メイクテーラ失陥によって修理資材到着の見込みが無くなった1式砲戦車は、実力発揮の機会を得ないままカンギーという地点で処分されています。移送困難な材料廠の資材の多くも一緒に処分されました。(右画像はメイクテーラで4月5日に第17インド師団が鹵獲した所属不明の95式野戦力作機)

 日本軍が防衛態勢を再構築する間もなく、イギリス軍はラングーンを目指して南下を始めました。戦車第14連隊を含む第33軍残存部隊はピヨベで敵を阻止しようとしますが、西寄りに迂回したクロード・パート准将の機動部隊「クロードコルClaudcol」(クロード縦隊Claud-column、パート縦隊。注4)によって4月9日にはラングーン街道を断たれ、包囲されてしまいます。
burma_map2.png 4月10日、戦車第14連隊は、一か八かのピヨベ脱出を決意します。同日夜、連隊の全戦力である97式中戦車改3両(第1中隊1両・第2中隊2両)・57mm砲型の97式中戦車2両(第4中隊)・95式軽戦車2両(第3中隊・第4中隊各1両)の計7両の戦車が走り出すと、段列のトラック数両が続きます。さらに他部隊のトラック数両もこの突破行動に加わりました(注5)。
 街道を南下した車列は、クロードコルのM4中戦車隊と遭遇、戦闘となります。火力・装甲とも劣る日本側は果敢に肉薄しつつすり抜けようとしたようで、車高の高いイギリス軍戦車が俯角を付けて照準するのに苦労するほどでした(注6)。しかし、第2中隊の97式中戦車改2両が次々と被弾炎上。不利と見て急反転した57mm砲の中戦車1両も、操縦を誤って道路から川岸に落ち転覆してしまいました。かろうじて先頭の95式軽戦車1両が突破できたのみで、後の車両はやむなく引き返します。
 翌4月11日朝、今度はクロードコルの側から北上してきたため、戦闘となります。残る2両の日本軍中戦車が踏みとどまって抵抗しましたが、破壊されました。前日に唯一突破に成功していた軽戦車も、まもなく敵戦車に発見されて破壊されています(注7)。残り1両の軽戦車の最期は未確認ですが、いずれにしてもこの一連の戦闘により、戦車第14連隊の戦力はほぼ全てが失われてしまったのです。イギリス軍は、ピヨベでの戦闘で日本戦車(の残骸?)8両を鹵獲したと記録しています(注8)。

 ピヨベ脱出戦で戦力を消耗しつくした戦車第14連隊は、別動の材料廠が手配したトラックを使いながら、ピンマナPyinmanaまで人員を後退させました。ここも安住の地ではなく、4月19日にはイギリス軍が侵入しています。連隊は、近くのミョーラ貨物廠で物資を補充しつつ南下し、4月26日にトングーTaungooへ着きました。さらに転進は続き、第33軍の諸部隊とともにシッタン川河口を目指します。ラングーンへ快進撃するイギリス軍前線の後方に取り残された形で、息を潜めての行軍でした。なお、5月2日にイギリス軍がラングーンを占領しています。
 退却行の間、トングー自動車廠に95式軽戦車が残っているから受領せよとの指示が上級部隊から出ていますが、実際には入手することができなかったのではないかと思われます。小銃すらろくに持たない徒歩部隊のままであったようです。
 5月には、戦車第14連隊はシッタン川河口東岸のビリンBilinに集結しました。ビリンでも95式軽戦車を受領するよう指示を受けていますが、実現したのか不明です。7月に部隊を改編して2個中隊編制となり、付近の警備を担当しつつ終戦を迎えました。2個中隊の内容は、第1中隊が傷病兵、第2中隊が戦闘可能者というまことに末期的な区分でした。(この章終わり


注記
1 「戦車第十四聯隊戦記」・498頁。なお、このエピソードは、辻政信「十五対一」にも「難波中佐」の負傷として登場する。

2 野尻忠邑少尉の回想。

3 Antony Brett-James “Ball of Fire” Aldershot Gale & Polden Ltd, 1951, p.404

4 クロードコルの編制は、プロヴィンス騎兵連隊の戦車大隊2個・第16軽騎兵連隊の装甲車大隊2個・自走砲中隊・歩兵大隊2個その他。4月4日にメイクテーラを出撃。

5 「戦車第十四聯隊戦記」・532~533頁。

6 アレン・下55~56頁。イギリス側戦車兵のマイルズ・スミートン大佐の回想が紹介されており、その内容は日本側の記録とよく整合している。

7 「戦車第十四聯隊戦記」・537~538頁。

8 戦史叢書イラワジ会戦・260~262頁。
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