山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第3章・前編)

3.先遣隊の槍は砕けて

 spearhead [名詞]
  1 やりの穂先、やりの穂先のようにとがったもの
  2 攻撃や事業などの先鋒、率先する人、最先端

 1945年3月末、敗走する友軍の流れに逆らってラングーン=トングー道を北上する日本軍部隊がありました。歩兵第144連隊(長:吉田章雄大佐)を基幹とする第55師団の吉田先遣隊です。メイクテーラ攻略の余勢を駆って南下する英軍を食い止めるために、第28軍から転出してきたのでした。
 吉田先遣隊の編制は、歩兵第144連隊主力を基幹に、本章の主役である騎兵第55連隊第3中隊、山砲兵第55連隊の第1大隊他、工兵第55連隊第3中隊、独立速射砲第14大隊主力などから成ります。その装備は、山砲9門、47mm速射砲6門、95式軽戦車5両に軽装甲車10両を含みました(注1)。数字だけみると、装甲戦力や高性能対戦車砲を備えたバランスの良い連隊戦闘団に見えます。実際には、歩兵連隊主力と言っても2個中隊と機関銃中隊だけ、山砲も2個大隊+集成中隊の寄せ集め9門で内5門は人力輸送、装甲戦闘車両は中古車ばかりという難有り商品でしたが、それでも当時のビルマ戦線としては間違いなく有力な諸兵科連合部隊でしょう。
 この吉田先遣隊は、太平洋戦争前半に太平洋正面で活躍した南海支隊の後身に近い部隊でした。第55師団の一部を割いた南海支隊は、グアム攻略からラバウル攻略作戦、ポートモレスビー攻略作戦と転戦して東部ニューギニアで壊滅。再建されて、1943年11月にビルマ戦線の師団主力へ追及してきたのです。先遣隊の機甲戦力である騎兵第55連隊第3中隊も、壊滅した南海支隊騎兵隊を再建したものです。

 騎兵第55連隊は、第55師団の師団騎兵です。開戦前の1940年頃の編制では、乗馬騎兵中隊2個のほか戦車中隊(軽戦車2両・軽装甲車6両)・機関銃中隊・騎砲兵中隊各1個を有し、日本陸軍の師団騎兵としては大規模なものでした(注2)。もっとも、太平洋戦争出陣に際しては、乗馬中隊3個・機関銃中隊(速射砲2門含む)に改編されていたようです。船積やタイ・ビルマ国境山地突破の関係ではないかと思われます。連隊主力987人・馬1115頭が師団主力に従ってビルマ戦線へ、第3中隊(1個小隊欠)と機関銃小隊(速射砲1門・重機2丁)の約80人が南海支隊騎兵隊として動員されました。
 連隊主力はビルマ攻略後に、維持の困難な乗馬を手放して、徒歩中隊2個・機関銃中隊に改編されました。火砲としては速射砲2門のほか鹵獲迫撃砲2門を有していました。
 残存人員数名まで消耗した南海支隊騎兵隊の復帰後、1943年末に第3中隊を戦車隊として再建することになります。注記のとおり資料によって装備車両数にばらつきがありますが、次第に増強されて時期による違いがあるのではないかと考えます(注3)。元中隊員の回想を参考にすると1945年3月に3個か4個小隊編制で約100人、うち1個が軽戦車小隊だったようです(注4)。この編制規模からするに、1945年3月での装備は95式軽戦車5両と軽装甲車10両と見るのが妥当と思われます。元中隊員の回想で軽戦車5両を「あけぼの」「あかつき」「龍」「虎」「犀」とそれぞれ命名していたとあり、少なくとも最終的に軽戦車が5両あったのは間違いなさそうです。

 旧南海支隊関係の部隊は、ビルマ追及後、予備隊的な運用をされていました。再建間もなく練度に不安があったのでしょう。騎兵第3中隊も、騎兵連隊主力とは別行動を続けました。第2次アキャブ作戦でも、後方警備に残されました。
burma_map2.png 第2次アキャブ作戦後の1944年8月、第55師団はイラワジデルタのバセイン地区に後退します。この時期、日本の緬甸方面軍は、予想されるイギリス軍の全面反攻に対処するため、第15軍によるイラワジ会戦(盤作戦)を計画していました。これに合わせ、第55師団の属する第28軍には、イラワジデルタへ海陸から侵攻すると予想されるイギリス軍の迎撃(完作戦)が命じられたのです。第55師団は隷下部隊を、忠兵団(師団主力)・振武兵団(第55歩兵団司令部及び歩兵第143連隊基幹)・干城兵団(歩兵第112連隊基幹)・神威部隊(騎兵第55連隊基幹・注5)と4分割し、イラワジデルタ一帯の広範囲を守備させました。
 バセイン地区駐屯中の1945年1月下旬に、第55師団主力は、示威行動を兼ねた3日間の大規模な機動演習を実施しています。敵の空挺部隊降下を想定した内容だったようです。騎兵第55連隊第3中隊もこの演習に参加しており、自動車隊列の先頭に立って想定戦場を走り回りました。このとき、ある歩兵中尉は、自分のトラックを先導する騎兵連隊の軽戦車3両を初めて見かけ、第2次アキャブ作戦中に交戦したイギリス軍戦車と比べると、小さく装甲も薄い玩具のようだと思ったといいます(注6)。

 しかし、1945年3月、メイクテーラが陥落しイラワジ会戦の戦況が悪化すると、第55師団に対し、北上して第15軍方面の救援にあたるよう任務変更が命じられました。第55師団は、振武兵団・神威部隊にイラワジデルタの守備を託すと、干城兵団をポパ山周辺に進めてイギリス軍の側面を牽制させるとともに、主力である忠兵団がトングーまで北上して防衛線を張ることになります。
 転進を決めた忠兵団は、歩兵第144連隊主力を基幹とする部隊を先行させることにし、こうして冒頭の吉田先遣隊が先行を命じられることになったのです。(つづく

注記
1 戦史叢書イラワジ会戦・186~188頁。

2 戦史叢書ビルマ攻略作戦・45頁。

3 装備車両数について、戦史叢書イラワジ会戦・186頁では軽戦車5両・軽装甲車10両、戦史叢書インパール作戦・340頁では軽戦車5両・軽装甲車4両とする。原典は「第五十五師団戦史資料」とある。他方、桜井徳太郎第55歩兵団長日記によると1944年5月の時点で戦車4両と軽装甲車2両だが、指揮官が少尉となっており、中隊の一部だけの可能性がある。

4 「最後の騎兵隊」・454頁、前田繁義伍長の回想。

5 神威部隊の当初編制は、騎兵第55連隊主力(徒歩中隊2個・機関銃中隊)、歩兵第143連隊第1大隊、山砲兵第55連隊第2大隊(野山砲混成の6門)、工兵第55連隊の1個小隊ほか。1945年4月下旬には、対戦車戦力として独立速射砲第14大隊第2中隊(47mm速射砲4門)、野戦高射砲第71大隊第4中隊(高射砲4門)、独立機関銃第1中隊(機関砲16門)、策鉄血隊(肉攻要員30人)を増加配属。それ以降も、第54師団隷下部隊等の配属を受ける。
 神威部隊は、イラワジ川東岸アランミョーAllanmyo=パローPyalo?間で縦深陣地を築き、プロームへ南下するイギリス軍を迎撃するが、4月末までに突破された。

6 玉山和夫ほか「日本兵のはなし ビルマ戦線―戦場の真実」(マネジメント社、2002年)・303頁より、歩兵第112連隊第1中隊の稲澤達中尉回想。
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