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山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第1章・その1)

1.戦場の宅配便

一、驕敵撃滅の神機到来せり
二、第十四方面軍は海空軍と協力し、成るべく多くの兵力を以てレイテ島に来攻せる敵を撃滅すべし
-昭和19年10月22日・南方軍命令-

 太平洋戦争後半、アメリカ軍の本格的が進み、決戦場となったのがフィリピンでした。そのうち最初の地上戦が行われたのがレイテ島です。日本軍は初期配置の第16師団に加えて3個師団・1個旅団の増援部隊を投入、米軍7個師団と激突する大規模な戦闘となりました。
レイテの八九式中戦車1 レイテ島守備隊の日本陸軍第16師団に、唯一の機甲戦力として配属されていたのが、1944年6月に千葉県津田沼の戦車第2連隊補充隊を母隊として編成された独立戦車第7中隊(通称号:威第358部隊→威第17658部隊、注12)です(独立戦車中隊の来歴については第三部第3章も参照)。機甲戦力と言っても、その装備は旧式の八九式中戦車11両でした。資料によっては九五式軽戦車とされていますが、姉妹部隊の独立戦車第8中隊の隊員による調査や、米軍がレイテ島で撮影した写真(右掲)を見る限り、八九式中戦車です。米陸軍公刊戦史の引用する捕虜供述でも、旧式戦車を装備していたとあります(注1)。その任務は純粋な戦闘部隊ではなく、戦車を飛行場整備機材として活用する期待もあり、滑走路整地用の牽引式ローラーを装備していました。
 なお、第16師団固有の機甲戦力として本来は捜索第16連隊(軽装甲車2個中隊装備)がありましたが、1944年4月に師団主力がルソン島からレイテ島へ移動した際、ルソン島に取り残されていました。

 独立戦車第7中隊が編成された1944年6月までの日本軍の作戦計画は、絶対国防圏構想に基づく太平洋上での航空決戦を志向しており、地上戦闘は二義的なものでした。大本営はフィリピン防衛を担当する第14軍を「航空基地軍」となるよう指導し、師団・旅団ごとに飛行場建設担当の参謀を配員しました。飛行場建設を管理する第3・第5野戦飛行場設定司令部もフィリピンに送りこまれましたが、実働部隊である野戦飛行場設定隊は建設予定飛行場114箇所に対して3個隊と少数で、労働力は現地守備隊・現地住民を活用するものとされました。そのためフィリピン各地で、陣地の構築を後回しにしてでも、飛行場の急速整備が進められており、特にレイテ島では既存のタクロバン海軍飛行場に加えて7箇所の陸軍飛行場新設が計画されていました。
 1944年7月のサイパン失陥で絶対国防圏構想が崩壊すると、フィリピンでも泥縄的に地上戦の準備が始まります。7月10日の第14軍兵団長会同で各師団長・旅団長らに地上作戦軍となる旨の計画が示されますが、海岸付近に多い航空基地群の確保とサイパンで失敗した水際作戦の二の舞回避という矛盾した内容を含み、師団長ごとに受け止め方が分かれていたようです。牧野四郎第16師団長は航空基地の確保を重視した結果、従前どおりの水際配備による飛行場防衛方針を維持しました。
レイテ島戦場の略地図 そうした中で、独立戦車第7中隊は、部隊略歴によれば1944年6月24日に内地発、7月25日にマニラ到着、7月下旬にレイテ島に進出したとされます(注2)。乗船船団は特定できていませんが、タマ21C船団(7月14日高雄発・7月19日マニラ着)辺りが比較的近い行程です。8月には第35軍の第16師団指揮下に入りました。牧野第16師団長の『比島陣中日誌』によれば、8月15日に中隊長の河野勲大尉が牧野第16師団長に到着を申告しています(注14)。
 部隊略歴には輸送途中の損耗の記載がなく、この時期には珍しく無傷で現地に進出したようです。この点、木俣滋郎『戦車戦入門』には、先発した河野に数日遅れでルソン島からレイテに移動中の第2梯団乗船の小型貨物船「義丸」(200総トン)が、8月15日にレイテ島南方海上で触雷沈没したとあります(注3)。編成母体である戦車第2連隊の戦友会出版物にも同様の記述があり、八九式中戦車を全損したので現地にあった軽戦車11両で再建されたとしますが(注13)、これらの文献は誤りと思われます。「義丸」については、1944年8月15日に第16師団指揮下の「第三義丸」(注4)が、レイテ島西岸バイバイから東岸ドラグ・タクロバンへ向けて備蓄燃料の海上輸送中、レイテ島南西端マーシン港沖で触雷大破したのが該当するようですが、多数の戦車を搭載できる規模の船ではなく、戦闘詳報の兵器損耗表にも戦車関係の記載がありません(注5)。牧野第16師団長『比島陣中日誌』の8月15日の項に独立戦車第7中隊の河野大尉到来の記事と並んで「義丸」(200トン)沈没との記載があり、同史料を使った前掲木俣が無関係の2つの情報を混同したのが原因でしょう。戦車第2連隊の戦友会本の執筆者は独立戦車第1中隊の原田早苗中尉であって直接の経験談ではないため、先行する前掲木俣(初出は1975~1980年)を参照した結果、誤りも引き継いだものと思われます。
 独立戦車第7中隊は前述のとおり、もともと飛行場整備も任務として予定していましたが、実際にも第35軍の指揮下に入ると同時に、第3野戦飛行場設定司令部が実行中のレイテ島の飛行場群建設に協力させるよう命令が出ています(尚作命甲4号。注6)。捕虜供述によると、米軍上陸までの2ヶ月間、戦車はほとんど飛行場整備だけに従事して過ごしたようです。

 独戦第7中隊のレイテ進出から2ヶ月後の1944年10月20日、レイテ島東岸のタクロバンとドラグ付近等にマッカーサー率いる米軍が上陸、レイテ島の戦いが始まります。第16師団指揮下の諸部隊はこれを迎撃しますが、飛行場建設を優先したことで陣地構築が不十分だったようです。第16師団の10月初旬の報告では、水際陣地が軽掩蓋程度で進捗率80%、飛行場直掩陣地は着手したばかりなどとなっています。その上、第16師団は、最重要施設である海岸近くのタクロバン・ドラグ飛行場を守るため水際配備の方針を採っていましたが、不幸にもこの方針決定後のサイパン戦の戦訓で水際陣地は艦砲射撃に対して脆弱なことが判明します。第16師団は、艦砲射撃と空襲に支援された米軍4個師団に圧倒されて、たちまち内陸に押し込まれる結果となりました。タクロバン・ドラグ両飛行場とも上陸初日のうちに米軍に占領されています。
 米軍上陸前の10月初旬、独立戦車第7中隊は、飛行場整備支援のためかブラウエン飛行場地区のブリ(ブラウエン北飛行場付近)に駐屯していました(注7)。部隊略歴によれば10月13日から18日の事前砲爆撃で戦車が使用不能になったとありますが、後述のとおり米軍上陸までに相当数が稼働状態に整備されていました。中隊は米軍船団がレイテ島に接近した10月18日の第16師団命令で、ドラグ正面を担当する南部レイテ防衛隊長(歩兵第20連隊長)の指揮下に入ります(垣作命甲第824号、注8)。そして、米軍上陸初日の10月20日夜から翌10月21日未明、中隊主力(米陸軍公刊戦史引用の捕虜供述によれば8両【疑義あり。コメント欄参照】)はドラグ飛行場地区へ突入を命じられます。
 米陸軍公刊戦史によれば、10月20日夜、米陸軍第7師団の第一線の第184歩兵連隊G中隊(右翼の第32歩兵連隊との境界地域担当)が徹夜で壕を掘っているところへ、日本戦車3両が襲来して機関銃を掃射しますが弾道が高くて命中せず、バズーカや迫撃砲の砲火で一度撃退されます。1時間後に戦車1両だけが再来襲した時には、米兵の小銃擲弾で撃破されて乗員も戦死しています。別に「偵察車」(scout car)1両が現れて米兵5名を死傷させていますが、夜間で戦車を誤認したのか(騒音の点で間違えるか少し疑問)、武装トラック等なのか正体不明です(注9)。
レイテの八九式中戦車2 また、ドラグ・ブラウエン道南側沿いの第184歩兵連隊第3大隊の前には、10月21日午前1時30分ころに日本の中戦車3両が出現しますが、バズーカや手榴弾による攻撃で全滅。午前4時ころにも戦車6両が現れて、約30分間の戦闘で2両を失って撤退しています(注9)。
 日本側公刊戦史の戦史叢書では戦車中隊の突入時にドラグ拠点の予備隊が同行して、米軍戦車の円陣に突入しようとしたが陣前に破砕されたとあります(注10)。他方で上記の米軍記録では随伴歩兵がいた様子がなく、実際は歩戦協同を意図したものの事前訓練もないままの夜襲で連携が取れず、分離したまま各個撃破されたのだろうと思われます。
 以上の米軍記録では出現した戦車数が8両よりも多く思えますが、状況把握が難しい夜間戦闘であり、細部は誤りがあると思われます。被撃破数6両とすると出撃8両中2両生き残っているはずですが、その後の行動は不明です。後退後に燃料切れや故障などで放棄されたのかもしれません。
 なお、米陸軍公刊戦史に引用された捕虜供述【疑義あり。コメント欄参照】によれば、中隊主力8両の出撃後、戦車3両がブラウエン飛行場地区ブリにあったものの、これは可動状態にない車両が残置されたものだったとのことです(注1)。おそらく行動不能のまま、10月24日のブリへの米軍侵入で失われたものと思われます。

 以上のとおり、独立戦車第7中隊は、レイテ島の初期数日間の戦闘で事実上全滅しました。河野中隊長以下、生還者もほとんどないようで部隊略歴では1944年10月21日に「全員玉砕」としていますが、10月24日に整備兵1名がブラウエン地区で捕虜となっており、米軍の尋問に対して貴重な証言を残しています(注1)。
 この点、前掲木俣は、12月13日にレイテ島西岸の2号ハイウェイで交戦した日本軍戦車隊を独立戦車第7中隊の生き残りと述べていますが(注11)、次回以降に述べるとおり、戦車第2師団所属の戦車とみるのが素直でしょう。
 ここまで約1週間の激戦で第16師団も戦力の過半を消耗しており、以後のレイテ島の戦闘は、他島からの増援部隊が主役となって続いていくことになります。(続く)


注記
  1. Cannon (1993) , p.135
  2. 『南方・朝鮮(南鮮)方面 陸上部隊略歴(航空・船舶部隊を除く) 第5回追録』 JACAR Ref.C12122500400、画像31
  3. 木俣(1999年)、273頁。初出は『PANZER』1975年8月~1980年8月号
  4. 「第三義丸」について、船舶番号46413・船主:水口義行・199総トンか。いわゆる海上トラックと思われます。
    なお、初稿では中隊編成時の装備戦車数を12両としましたが、執筆メモの読み間違いで当初から11両装備と思われます。その点からも木俣の述べる海没損害はなかったように思われます(2019-05-26訂正)。
  5. 輜重兵第16連隊第2中隊 『「マーシン」港外戦闘詳報』 JACAR Ref.C14061353700
  6. 尚作命甲4号については、JACAR Ref.C13071376200。原文では「タクロバン」付近航空基地とありますが、第35軍ではタクロバン飛行場(海軍支配)以外にレイテ島所在のブラウエン南北飛行場・サンパブロ飛行場・ドラグ飛行場をタクロバン基地と総称しているようです(「飛行場の急速なる補修強化の件」 JACAR Ref.C13071376500)。
  7. 「第十六師団状況報告」1944年10月8日、附表 JACAR Ref.C14061301900
  8. 「標題:垣作命甲第824号 第16師団命令 10月18日」 JACAR Ref.C13071393100
  9. Cannon (1993) , pp.127-128
  10. 戦史叢書「捷号陸軍作戦(1)」、376頁
  11. 木俣(1999年)、294頁
  12. 通称号について、初稿では「垣第17658部隊」としましたが「威第17658部隊」に兵団文字符を訂正(2019-05-26)。部隊略歴では南方軍の兵団文字符「威」ではなく第16師団の兵団文字符「垣」となっているのですが、師団編合部隊ではないのに師団の文字符を冠することには疑問があり、姉妹部隊の細田資料も参考に「威」としました。なお、Twitterで助言を頂いた、牛丼師団氏とkk氏に御礼申し上げます。
  13. 原田早苗「独立戦車第七中隊の奮戦」『追憶-戦車第二聯隊の碑建立記念』戦車第二聯隊戦友会、1988年、52頁
  14. 牧野四郎『牧野四郎追憶遺稿録』安倍孝一、1964年。以下「義丸」での海没有無についても牧野日誌ふまえて加筆(2019-09-28)。
Comment
2019.05.28 Tue 13:02  |  Taki #LkZag.iM
米陸軍公刊戦史に引用されている捕虜供述の原本をみると、出撃したのは8輌中の3輌だけで、残りの5輌はその後に放棄されたとあります。したがって、10月20日夜の戦闘に参加したのは実際には3輌だけだったと思われます。
出撃した戦車に付いて  [URL] [Edit]
2019.05.28 Tue 23:30  |  山猫男爵 #3fSe.YNE
Taki様
ありがとうございます。せっかく見に行けるところにあるわけですし、きちんと原史料に当たらないとだめですね。
出撃したのが3両だけとすると、コメントのURL欄のリンク先に上がってる写真が4~5両分あるように思える点が気になりました。最初から動いてない車両が混じっているのか、通行の邪魔などで移動させられた車両が別車両に見えるだけなのかもしれませんが。
お返事  [URL] [Edit]







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