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山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

鋼棺戦史(第3部・第5章・中編)

第三部 悲島戦線
5 消えた連隊(中編)


 (承前)久保田支隊がスアル地区に進出した翌日の1945年1月6日には、リンガエン湾一帯で米軍の事前艦砲射撃が始まります。これに呼応して現地のゲリラ兵による橋や艀などの破壊工作も活発化し、日本側の交通網は寸断されました。
 同日、スアル地区の陣地構築支援に当たっていた工兵分隊には撤収命令が出され、工兵第23連隊長自らがトラックで収容に向かいますが、ゲリラによってアグノ川の艀が沈められていたため、渡河不能で断念しました。この工兵分隊はそのまま消息不明となり、米軍上陸初日の1月9日にラブラドルで全員戦死と認定されています(注1)。
 また、海上挺進第12戦隊の追及人員(退院者)や第23師団司令部との連絡用にと配属された通信小隊も、師団司令部のあるシソンから輜重連隊差し回しのトラックでスアル地区を目指したものの、30kmも手前で下車を余儀なくされました(注2)。
 このように交通網が寸断され、通信網も十分に整備できず、久保田支隊は一層孤立していきます。弾薬食料の補給もできず、携行した約1週間分しか保有しなかったようです(注3)。

久保田支隊地図 米軍上陸直前のスアル地区における久保田支隊の布陣は、歩兵第72連隊通信中隊長だった鈴木昌夫の著作によれば、スアル南側高地に捜索第23連隊、東のラブラドル南側高地に歩兵第72連隊第1大隊(野田大隊)となっています(注4)。海岸線に監視の歩兵1個小隊を派出していましたが、艦砲射撃が激しくなったため後退し、代わりに後方山頂に監視哨を設置しました。他方、海上挺進戦隊関係者は、舟艇を持つので沿岸部に残り、スアル周辺の横穴壕や水無川に舟艇とともに分散して潜んでいたようです。
 1月7日、久保田支隊長は、捜索第23連隊の第4中隊(装甲車中隊)と通信小隊(主力?、注5)をラブラドル東方のブガリョン(Bugallon)に前進配置します(注6)。米軍予想進路の警戒部隊としての意味に加えて、装甲車はサンバレス山中での行動が困難なため、不利なときは路上機動で南下してタルラック方面に後退できるようにという意図だったのではないかと思います。タルラック以南には、クラーク地区守備の建武集団(戦車第2師団機動歩兵第2連隊主力と陸海軍航空部隊)が布陣していました。
 久保田支隊の戦闘部隊各隊は防御陣地の構築に努めたおかげで、ラブラドル市街が事前砲爆撃で全焼する中でも目立った損害はなかったようです。ただし、海上挺進第12戦隊では1月7日と1月9日に事前砲爆撃による戦死者9名が出ています(注7)。

 1月9日、米軍は北側から順に第1軍団(第43師団・第6師団)と第14軍団(第37師団・第40師団)を並列して、リンガエン湾への上陸を開始します。前編で述べたとおり、南翼のリンガエン町正面は湿地帯のため米軍は上陸しないというのが日本軍の想定でしたが、この予想は外れて第14軍団がリンガエン町正面に上陸しています。
 久保田支隊と対峙するのは米軍最右翼の第40歩兵師団で、湿地帯に苦しみつつも、日本軍の守備隊が配置されていないため悠々と橋頭堡を確保しました。上陸初日に第40歩兵師団右翼の第185歩兵連隊はスアル方面へ侵攻して西のアグノ川河口へ到達、師団の偵察中隊は水陸両用戦車LVT(A)に乗車してアグノ川を渡河すると、スアル港東方3マイルで道路を遮断する陣地を築きました。師団左翼では第160歩兵連隊が内陸4マイル(約7.5km)まで進出しています(注8)。米陸軍公刊戦史によれば上陸初日に日本軍との接触はほとんどなく、第40歩兵師団の部隊史も7名の日本人を殺害して、4名の中国・台湾出身労務者を捕らえたのみとしています(注9)。
 米軍上陸直後の久保田支隊のうち捜索第23連隊第4中隊の様子については、前記のシソンからスアルに追及中の海上挺進第12戦隊員による目撃情報があります。彼や配属通信小隊はトラックを下車して徒歩で行軍を続けたところ、1月9日夕刻にスアル手前6kmの地点で第23師団の装甲車隊に遭遇し、頼もしく感じたと回想しています(注2)。しかし、装甲車隊から、この先の三叉路(ブガリョン北のリンガエンとスアルに分かれる三叉路?)まで米軍が来ているので前進しても捕虜になるだけだと諭され、やむなくシソンの師団司令部まで引き返しました。その後、本隊に合流できなかった海上挺進戦隊員20余名は、同じく北サンフェルナンドからの移動ができなかった海上挺進基地第12大隊整備中隊長の指揮下で、バギオ方面において歩兵として戦っています。 なお、海上挺進戦隊員の回想によると装甲車隊は自分たちも撤退すると述べていたとのことですが、捜索第23連隊第4中隊は実際には翌1月10日までブガリョン付近に留まっていました。

type4boat.jpg 1月9日から10日にかけての夜、スアル地区配備の海上挺進第12戦隊は、上陸船団に対する舟艇攻撃を決行します。出撃した四式肉薄攻撃艇(マルレ)の数は同戦隊第3中隊基幹の35~40隻で、攻撃型輸送艦「ウォア・ホーク」・戦車揚陸艦3隻・駆逐艦2隻損傷、歩兵揚陸艇(火力支援型)2隻沈没という相当の戦果を挙げました。日本軍の同種作戦としては初めての大規模事例であったため、米軍の警戒が緩かったことが成功の一因ではないかと思われます。画像はリンガエン湾で米軍が撮影したマルレの残骸で、船体に描かれた「ヲ27」の識別番号はイロハ仮名の12番目「ヲ」で海上挺進第12戦隊所属艇27号を示すのではないかと思います。
 この出撃で戦隊長の高橋功大尉以下45名が戦死・2名が捕虜となり、舟艇もほとんど破壊され、海上挺進第12戦隊は組織的な水上作戦能力を失いました。海上挺進戦隊関係者による『[○レ]の戦史』によれば、スアル地区残存人員5名が、シソン方面の海上挺進基地第12大隊整備中隊長の指揮下に入ったとしていますが(注7)、実際に合流できたとは思えず、形式的な指揮系統の意味でしょうか。
 舟艇攻撃が終わった時点で久保田支隊は海上挺進戦隊の援護というその任務の一つを終えたことになりますが、クラーク地区を目指す米軍との交戦はまだ続きます。

 上陸2日目の1月10日、米陸軍第40歩兵師団右翼の第185歩兵連隊は久保田支隊主力のいるスアル方面へ向けて西進を続け、若干の日本軍の抵抗を受けますが、深刻な脅威という程ではありませんでした。第40師団に配属の第754戦車大隊B中隊のうち第1小隊が直接射撃で塹壕や銃座を吹き飛ばしています(注10)。久保田支隊の歩兵第72連隊第1大隊の前進陣地による抵抗と思われますが、詳細は不明です。
 また、米軍側は、駆逐艦「ロイツェ」と歩兵揚陸艇の火力支援仕様であるLCI(M)6隻・LCI(G)13隻をスアル方面の火力支援に差し向け、日本側の監視哨や集結地点に激しい艦砲射撃を加えました(注11)。この砲撃は日本側にとってかなりの脅威だったようです。
 翌1月11日にも米軍第185歩兵連隊の攻撃は続き、同日夜には日本軍のラブラドル南側高地の前進陣地は撤収しています(注12)。米軍の艦砲射撃を避けるため、日本側は比較的すぐに山中への後退を選んだ印象です。
 米陸軍公刊戦史には、1月11日、海岸道を塞いだ第185歩兵連隊C中隊の前に、スアル方向から日本軍のシボレー乗用車が米軍に気付かない様子で走ってきて、乗車していた日本兵2人が射殺され、車は鹵獲されたというエピソードが紹介されています(注13)。場所からすれば捜索第23連隊の車両ですが、車種は他隊が現地で徴発した車両とも思われ、よくわかりません。
 なお、1月11日には米軍が捜索第23連隊の文書を鹵獲しているのですが、記録スタンプによると鹵獲地点がリンガエン飛行場となっています(注14)。鹵獲地点の記録が不正確なのか、何らかの事情で途中に残っていた文書なのか不明です。1月13日にはラブラドル東南方向のデュリグDuligで捜索第23連隊の陣中日誌が鹵獲されており、その付近に連隊本部が居た可能性もあるように思われます(注15)。

 一方、同じ米陸軍第40歩兵師団の第160歩兵連隊はブガリョンからタルラックに通じる国道13号線を南進して、捜索第23連隊第4中隊と交戦しました。
 1月10日にブガリョン付近で最初の戦闘は発生し、米軍は装甲車4両に支援された日本軍歩兵1個小隊の抵抗を受けたと記録しています(注13)。対する捜索第23連隊第4中隊の生存者(捕虜)は米軍の尋問に対して、この日に米軍戦車隊と交戦したと述べていますが(注6)、米側資料によると第40歩兵師団に配属の第754戦車大隊はこの時期に交戦をしておらず(注10)、同じく第40師団に配属の第640戦車駆逐大隊(M10駆逐戦車装備)にも明確な交戦記録はありません。日本側の言う「米軍戦車」はおそらく連隊砲中隊のM7自走砲か水陸両用戦車LVT(A)ではないかと思われますが、それでも軽装甲車で立ち向かうには厳しい相手です。この戦闘により日本側は九七式軽装甲車4両が破壊され、13名が戦死しました(注6)。他方、米軍も第160歩兵連隊の約5名が戦死・約10名が負傷しており、これは第14軍団麾下の連隊が上陸直後の3日間で受けた最大の損害でした(注13)。この戦闘で第160歩兵連隊の前進は遅延したものの、同日の日没には内陸8マイル(約15km)の地点まで到達しました。
 捜索第23連隊第4中隊はブガリョンとカミリン(Camiling)の中間のサン・クレメンテに後退して、1月12日に再び南下してきた第160歩兵連隊と交戦。ここでも「米軍戦車」(これも実際は自走砲等と推定されます。)によって軽装甲車3両を破壊されて、15人が戦死し、第4中隊はその戦力の殆どを喪失しました(注6)。捕虜供述によると中隊長も1月中に戦死とあり、ここまでの戦闘で戦死していたように思われます。米軍第40歩兵師団の部隊史にはサン・クレメンテで日本軍の37mm砲1門を破壊したとの記述があり、軽装甲車の戦車砲のことを指しているのでしょう(注16)。
 捜索連隊第4中隊の生き残りは最後の軽装甲車を自ら破壊処分して身軽になると、1月15日にカミリン付近を経由して山中に退却します(注6)。この頃、米軍の第40師団の東側を南下してきた第37師団が側道からカミリン付近に進出してきているため、退路を遮断されて山中に入ったのかもしれません。カミリン付近では捜索第23連隊第4中隊の陣中日誌が米軍に鹵獲されており、現在ではアジア歴史資料センターのウェブサイトにおいて米軍の押収スタンプが押された画像を見ることができます(注17)。(後編に続く


<注記>
  1. 工兵第二十三連隊記録 比島篇』工23会、1969年、22頁・151頁。
  2. 儀同保『陸軍水上特攻隊 ルソン戦記―知られざる千百四十名の最期』光人社〈光人社NF文庫〉、2003年、84-85頁。
  3. 前掲 鈴木「消滅した久保田支隊の謎」、365頁。
  4. 前掲 鈴木「消滅した久保田支隊の謎」、368頁。久保田支隊の布陣は、鈴木自身が米軍上陸前に現地を観に行った体験に基づく基本的に信頼性の高い情報と思われます。ただし、本文でも触れたとおり、捜索第23連隊の陣中日誌がラブラドル東南方のデュリグDuligで鹵獲されたとの記録があり(注5)、これが正しいとすると捜索第23連隊の主力の所在は、鈴木の解説とは異なってラブラドルの野田大隊の東南方ということになります。
  5. 捜索第23連隊通信小隊の陣中日誌(JACAR Ref.C13010679100)が同連隊第4中隊の行動経路上のサン・クレメンテで1月18日に鹵獲されており、行動を共にしていたと思われます。第4中隊出身の捕虜も、米軍の尋問に対して直属上官ではない通信小隊長(Kayomura中尉)の名を、知っている連隊幹部として挙げており、この通信小隊長と同行していたので特に覚えていたように思われます。ただし、通信小隊長の名前は正しくは上村(かみむら)中尉のようです。
  6. 201-2.3: I Corps - G-2 Journal File (2 Apr 1945) (文書名:Records of the Adjutant General's Office; World War II Operations Reports 1940-1948 = 米陸軍省高級副官部資料/第2次世界大戦作戦記録) (シリーズ名:I Corps) (ボックス番号:3051 ; フォルダー番号:2)
  7. 若潮会戦史編纂委員会『[○レ]の戦史―陸軍水上特攻・船舶特幹の記録』 大盛堂書店、1972年、175頁。
  8. Smith (1993) , p.77
  9. "History of The 40th infantry division in The Philippines", 657th Engineer Topographic Battalion, p.9
  10. Armored School (1949-1950) "A Research Report : Armor on Luzon" , Kentucky: Fort Knox, p.58
  11. "History of The 40th infantry division in The Philippines", op.cit., p.11
  12. 前掲 鈴木「消滅した久保田支隊の謎」、367頁。
  13. Smith (1993) , p.78
  14. 満洲第836部隊(捜索第23連隊) 「昭和十九年度 他部隊作命綴」 JACAR Ref.C13010673800、画像2枚目
  15. 捜索第23連隊 「陣中日誌」 JACAR Ref.C13010678900、画像2枚目。
  16. "History of The 40th infantry division in The Philippines", op.cit., p.12
  17. 捜索第23連隊第4中隊 「陣中日誌」 JACAR Ref.C13071852400
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