山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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リーフ共和国興亡(第6回)

5.スペインの動揺
(1)プリモ・デ・リベラの登場

 第一次大戦後の不況に加え、アンワール会戦など相次ぐ敗北に、スペイン本国では、国王と政府に対する不満が高まっていました。軍内部でも、モロッコ死守を主張する「アフリカ派」と、早期撤退を求める「半島派」に二分されます。
プリモ・デ・リベラ 1922年9月、ついに軍部が混乱収集に動きました。カタルーニャ軍管区司令官ミゲル・プリモ・デ・リベラMiguel Primo de Rivera将軍を先頭にした陸軍部隊が、首都マドリードへ進駐したのです。
 国王アルフォンソ13世は、プリモ・デ・リベラ将軍を首相に任命。プリモ・デ・リベラ将軍により、軍部中心の内閣が組閣されました。

 国王とプリモ・デ・リベラ将軍の関係は、良好だったようです。国王は、政治力のあるプリモ・デ・リベラ将軍を利用しての王政維持を狙っていました。
 ちょうど同時期の1922年10月に、イタリアで成立したムッソリーニ体制と類似しているように思います。アルフォンソ13世がイタリア国王とトップ会談した際、同行したプリモ・デ・リベラ将軍を「私のムッソリーニ」と紹介したとも聞きます。

 首相となったプリモ・デ・リベラ将軍は半島派に近く、モロッコ撤兵を、もともとは考えていました。
 しかし、就任後の現地視察で、サンフルホJos é Sanjurjo将軍やフランコ中佐(1923年6月昇進)らアフリカ派の軍人に説得され、方針転換します。なお、このときの視察は、撤退議論から、かなり緊迫した雰囲気だったようです。

(2)スペイン軍の改革
 プリモ・デ・リベラ将軍は、形勢立て直しを計るべく、まず軍の改革を進めました。
 第一次世界大戦を経験しなかったスペイン陸軍は、当時、完全に腐敗していました。貴族出身の士官が、総人員の12%以上を占め、かなりトップヘビーの組織構成になっていたようです。士官の給与が予算を圧迫し、装備の更新も遅れています。士官人件費が、軍事予算の6割と言う少し怪しげなデータまであります。
 人員面の改善策としては、外人部隊の増強と、現地のモロッコ兵部隊(ムーア兵・モーロ兵)の増強が行われました。もちろん、本国陸軍も可能な限りの再編成が試みられたようですが、貴族士官の整理は十分とはいえなかったようです。(この人事面は、スペイン内戦に至るまで最終解決されません。)

スペイン陸軍のルノーFT-17軽戦車 装備面では、航空機や戦車、輸送用のトラックの増強が図られました。
 すでに戦車部隊については、フランスから輸入したシュナイダー突撃戦車とルノーFT-17軽戦車(左画像)の合計20両ほどが、1922年春にモロッコへ投入されていました。これに加えて、国産戦車の開発生産が進められます。
 航空部隊に関しては、海軍機の出動が要請され、1924年には水上機20機以上が進出します。

 軍の改革と共に、アンワールでの敗北の原因究明も進められました。特命委員会の調査の結果、軍指揮官に加えて、国王にも責任があるという発表がされています。1923年1月に、身代金支払いにより捕虜350人が解放されていますが、彼らの証言も採用されたのでしょうか。
 この調査結果もあって、国王アルフォンソ13世は、すっかり実権を失い、主導権はプリモ・デ・リベラ将軍に移ることになりました。(第7回へ続く

リーフ共和国興亡(第7回)

(3)西部でも続く敗戦
 スペイン軍の改革努力によっても、リーフ軍の勢いは、なかなか止まりません。
 東部ではメリリャだけが一時孤立した後、1921年冬には、スペイン軍は再びアンワール付近に前進拠点を設置していました。ただ、ゲリラ攻撃のため十分な補給が維持できず、こう着状態に陥ります。東部では、当分の間、街道の駐屯地の争奪戦が繰り返されることになります。

 代わって、主戦場は西部のセウタ側に移ります。
 西部は、もともとアブデルクリムの影響下に無い地域でした。そのため、スペイン軍の初期侵攻は順調だったことは、既に述べた通りです。しかし、東部での戦闘をきっかけに、西部でも激しい抵抗が始まったのです。
スペイン陸軍のルノーFT-17軽戦車隊 西部でスペイン軍は、新鋭の戦車部隊を中心に前進を図ります。
 ところが、ルノーFT-17軽戦車12両の戦車部隊は、天候不良で速度の鈍った随伴歩兵と分離してしまい、単独攻撃をするはめになってしまいました。対戦車火器を持たない部族兵を一時的に圧倒したものの、視察孔を狙撃されたり、ナイフを手に乗り移られたり苦戦します。結局、乗員多数が死傷し、2両を放棄して退却するしかありませんでした。

 天候不良に苦しめられたのは、海軍航空隊も同じでした。せっかくセウタに進出させたスーパーマリン「スカラブScarab」飛行艇は、天候不良により次々と失われ、20機中2機しか残りませんでした。
 陸軍からは、海軍機不要論さえ出てしまいます。

 リーフ共和国を建国したアブデルクリムらと西部の諸部族との間で連合協定がまとまると、西部もリーフ共和国に含まれることになりました。
 これにより、1924年初春から、強力なリーフ軍部隊が西部にも進出してくることになります。近代的な組織を導入し、優良な装備のリーフ軍は、西部の戦況をも一気に動かす力がありました。機関銃や200門以上の各種火砲も保有し、そのなかには最新式の迫撃砲まで含まれていました。兵力も、部族の在来兵士(というか戦士)とあわせ、70000人に膨れ上がります。
 リーフ共和国にとっても、西部進出は、中立港のタンジールとの間で補給線が確立されるという大きな戦略的メリットがありました。

 正規軍を中核に部族兵を加えたリーフ軍は、シャウエンに猛攻を加え、1924年秋に奪還します。装甲車を護衛につけた車列すらも、壕で足止めされた隙に手榴弾で撃破されるようになり、守備隊への補給が不能になったためです。
 このとき、スペイン軍の撤退作戦の指揮を執ったのが、フランコ中佐でした。退却は困難を極め、スペイン軍の損害は死傷12000人に及びました。待ち伏せにより、一度に40両以上のトラックが失われたこともあります。
 それでも、なんとかテトゥアンへの3万人以上の撤退を成功させたことで、フランコ中佐の名声は大いに高まります。翌1925年2月に、1924年1月まで遡及して(!)、大佐に昇進となりました。(第8回へつづく

リーフ共和国興亡(第8回)

6.共和国対共和国
 西領モロッコという言い方でもわかるとおり、現在のモロッコにあたる地域は、スペイン領ともう一つに分かれていました。
 そのもう一方の宗主国であるフランス第三共和国は、スペイン領の戦いを、これまで静観していました。仏領モロッコの平定は、すでにおおむね完了していたため、あせることはなかったのです。

 しかし、1924年頃、リーフ共和国の勢力がスペイン領西部にまで及ぶようになると、ついにフランスも行動を開始しました。リーフ軍のあまりの勢いに、連鎖的に仏領内でも抵抗運動が拡大することを恐れたためでしょう。スペイン領西部には、仏領モロッコに続く街道がありました。
 1924年5月、フランスのモロッコ植民地軍64000人のうち、12000人が、国境を越えスペイン領内に侵入し拠点を設置します。スペイン軍の方式同様に、街道沿いには多数の駐屯地が設営されます。
 フランス軍の狙いは、直接対決によるリーフ共和国打倒ではなかったと思われます。兵力規模としても小さく、一定以上の前進もしませんでした。おそらく、西領からの接触と仏領からの逃亡を阻止することが、主な狙いだったと考えます。仏領にも小規模な抵抗運動は存在しており、そのゲリラが、安全な西領へ逃げ込むこんでしまうことは、これ以前から問題になっていました。

 これに対し、リーフ共和国も、すぐには戦いを挑みはしませんでした。フランス政府に抗議をするだけで、まだ攻撃はしません。もちろん、そんな抗議は通じなかったのですが。
 フランス軍の質は、スペイン軍の質をはるかに上回っていると予想されました。アブデルクリムは、二正面作戦の愚かさを十分に理解していました。
 ただ、いつまでもフランス軍を放って置くわけにもいかない事情がありました。フランス軍の進駐したワルハWargha渓谷は、ちょうどリーフ軍の補給路にも当たっていました。それに、弱腰の姿勢はアブデルクリムの求心力を低下させ、連合部族の離反を招く虞もあります。
 シャウエン攻略が完了し冬も過ぎた1925年4月、アブデルクリムは決断を下します。リーフ軍精鋭4000人を率い、ワルハ渓谷へ出撃します。フランスに対する開戦でした。
 おそらく、アブデルクリムの狙いは、短期決戦にありました。一挙にフランス軍を撃破しつつフランス領に侵攻、仏領モロッコの首都フェズを押さえることで、講和に持ち込もうとしたものと思います。あるいは、仏領モロッコ内の一斉蜂起に期待した可能性もありますが。

 対仏戦においても、リーフ軍は快進撃を見せます。
 ワルハ渓谷の駐屯地を陥落させたのを皮切りに、駐屯地を次々と制圧していきます。フランス軍は、3000人以上の死傷者を出して各地で敗走しました。拠点を孤立化させ攻略する戦術を、リーフ軍は完全に身に着けていました。
 6月までに66か所の仏軍駐屯地のうち9か所を陥落させ、さらに30か所の放棄に追い込んだリーフ軍は、仏領内の部族の協力を得ながら進み、首都フェズに20マイルまで到達します。

 けれど、ここまでがリーフ軍の攻勢限界でした。
 思いがけない敗北に衝撃を受けながらも、フランス政府は和平交渉には応じませんでした。代わりに、スペインとの間で交渉を行い、共同作戦協定を締結します。
 徹底した武力鎮圧を決意したフランスは、フェズに次々と兵力を集中させます。開発の遅れたスペイン領と違い、仏領内には鉄道が敷設されていました。内線作戦の効果の前に、リーフ軍の進撃は阻止されたのです。
 さらにフランスは、本国軍を動員します。投入兵力は、ライン川方面から抽出された70個大隊(10万人)をはじめ、実に16万人以上。指揮を執るのは、第一次世界大戦の英雄アンリ・フィリップ・ペタンHenri Philippe Petain元帥でした。
 圧倒的な兵力により、フランス軍の反撃が始まります。(第9回へ続く


追記
 フランス領に侵攻し、最大の勢力になった頃の1925年8月17日、アブド・アル=クリムは、米「TIME」誌の表紙を飾っています。日本の田代某氏が表紙を飾りそうになったことでも知られる、あの情報誌です。

リーフ共和国興亡(第9回)

7.アルセマス上陸作戦
(1)反撃準備

 フランス軍の反撃に呼応するべく、スペイン軍も一大反撃作戦を準備していました。
 その作戦に重要な役割を演じることになるのが、スペイン海軍です。

 かつて無敵艦隊と呼ばれたスペイン海軍ですが、イギリス海軍・オランダ海軍に幾たびも破れ、その栄光は失われていました。19世紀末の米西戦争では、新興海軍のアメリカ艦隊の前に、マニラ湾海戦、サンチアゴ海戦と大敗を喫し、保有艦艇の大半を喪失するという屈辱を味わっています。
Acorazados_Jaime1-España1931 それでも再建の努力の結果、このリーフ戦争の頃には、「エスパーニャ」級戦艦3隻をはじめ、巡洋艦8隻、水上機母艦1隻、駆逐艦3隻などの艦艇を揃えていました。
 「エスパーニャ」級戦艦(右画像)は、第一次世界大戦前に着工された小粒のド級戦艦です。大戦の影響で建造が遅れていた3番艦の「ハイメ1世」は、1921年に完成したばかりでした。
 巡洋艦では、「レイナ・ビクトリア・エウヘニア」「ブラス・デ・レソ」「メンデス・ヌネス」の3隻の軽巡洋艦が新しく、ほかには装甲巡洋艦3隻、小型巡洋艦2隻がありましたが旧式でした。
 そして、目玉と言うべきが、水上機母艦の「デダロ」です。貨物船改装ながら、水上機20機以上の運用能力を持つ、世界的に見ても珍しい大型母艦でした。
 これらの艦艇の要目は、こちらなどの別記事を参照してください。

 リーフ戦争勃発当初、海軍はあまり大きな活動を見せませんでした。リーフ共和国側には海軍などありませんから、当然ですが。主に、沿岸封鎖や敗残兵の救助をしていたようです。メリリャの防衛戦に際しては、一部の艦艇を派遣して艦砲射撃を行っています。
 大きな艦隊が動いたのは1923年11月、国王アルフォンソ13世のイタリア訪問です。このとき中心になったのは、その名も戦艦「アルフォンソ13世」と「ハイメ1世」の2隻でした。
 あと一隻の「エスパーニャ」(初代)は、どうしたのでしょうか。実は同年の8月にモロッコ沿岸を行動中に座礁して、あえなく沈没してしまっていたのです。おそらく練習航海をかねての沿岸封鎖をしていたのだと思います。惨めなことに、スペイン海軍は、ほとんど動かぬ間に艦隊旗艦を失くしてしまっていたのです。
 1924年には海軍航空隊の水上機がセウタに進出して、天候不良で大損害を受けてしまったのは既述の通りです。
 なお、このほかの海軍被害として、1922年3月にスペイン艦艇1隻が沿岸行動中にリーフ軍の砲撃で撃沈されているとの情報もあるのですが、該当する艦艇を発見できていません。ただの誤認か、あるいは小型のボートの類でしょうか。

 さて、こんなスペイン海軍が引き受けることになった作戦とは、アルセマス湾への大規模な上陸作戦でした。リーフ共和国の首都アジール付近に大軍を揚げ、一挙に首都を占領しようという野心的な計画です。投入される陸上兵力は、第一次上陸部隊だけで8千人。しかも、火砲や戦車10両までも含まれていました。
 世界の近代戦史上においても、これほどの規模の上陸作戦が実行されたことは、それまでほとんどありませんでした。貴重な一例が、第一次世界大戦中の 1915年に行われた有名なガリポリ上陸作戦です。このガリポリ作戦には、はじめ連合軍5個師団が投入され、最終的に増援部隊を含め14個師団が上陸した挙句、死傷25万人を越す完全な失敗に終わっています。
 アルセマス湾上陸作戦は、ガリポリに比べれば上陸兵力は小さなものです。しかし、ガリポリの時には、戦車の上陸はありませんでした(注1)。そのうえ、支援を担当するのは世界最強の英国海軍ではなく、落ち目のスペイン海軍というのですから大変です。

 作戦に向け、スペイン海軍は準備を整えます。
 すでにスペイン海軍は、これ以前にも上陸作戦の可能性を研究していました。海軍の陸戦部隊である海軍歩兵(海兵隊)には、多少の上陸戦の訓練を積ませていました。海軍歩兵は、もともと接舷切り込みや軍港警備のための部隊であり、この時点では、まだ上陸作戦を正規任務とまではしていませんでしたが。
 それから、上陸用舟艇が要ります。これも、1921年に入手済みでした。スペインは英国と交渉して、ガリポリで実際に使用された中古の上陸用舟艇を26 隻も購入していたのです。これらの「K-1」~「K-26」と命名された揚陸艇は、全長30mで浅い喫水の自走式バージといった感じの船です(追記2)。船首に門型の支柱が立っており、道板が下ろせる様になっていました。人員なら300人ほどが運べ、戦車の搭載も可能でした。ほかに、小型の手漕ぎボートなども用意されたようです。
X_craft.png

 波打ち際の上陸部隊ほど弱い存在はありません。そこで、多数の航空機が援護用に投入されることと決定されました。海軍からは、新鋭水上機母艦「デダロ」も出動することになります。
 これまで航空母艦・水上機母艦が上陸作戦に投入されたことも、ほとんどありません。ガリポリ作戦に英水上機母艦「アーク・ロイアル」と少数機が参加しています。ほかには、大戦参戦前のアメリカが、1914年4月に中米で行ったベラクルスへの上陸作戦で、前弩級戦艦「ミシシッピ」に臨時に2機を搭載して使用した程度です。なお、このベラクルス上陸作戦には、後にアメリカ初の空母「ラングレー」となる給炭艦「ジュピター」も参加していますが、まだ改装前でした。
 陸軍航空隊やフランス軍機と合わせ、航空機は80機以上が用意されました。160機以上という説もあります。
 かくて、未知の要素を抱えながら、決戦の態勢は整ったのです。(第10回へ続く

注記
1 第一次世界大戦中にドイツ軍がバルト海方面で行った上陸作戦で、少数の装甲車が揚陸されたことはあるようです。ロシア内戦中への干渉戦争でも英軍が戦車を海上輸送しています。
 演習では米軍が1923年末~1924年に、クリスティー水陸両用戦車を試験した例もあります。ただし、これは失敗作と評価されたようです。

2 スペイン海軍が購入した上陸用舟艇は、英軍が開発した「XライターX-Lighter」と呼ばれる形式の舟艇のようです。装甲を施され黒く塗られた姿から、英軍内では「ビートルBeetle(甲虫)」とも呼ばれました。
 野砲などの重装備揚陸用の機材として、200隻以上が建造されました。排水量160t(後期型137t)、速力5kt前後。甲板下に船倉があり、3つのハッチが開いています。防弾も一応考慮されており、鋼鉄のハッチ蓋のついた船倉内部に居れば、小銃弾に耐えられる程度の構造になっていたようです。ガリポリ作戦の後期から、実戦投入されました。
 なお、英軍が第1次大戦で使用した上陸用舟艇には、「Yライター」と呼ばれる兵員輸送用の小型艇もあったようですが、こちらは、スペイン軍が使用した形跡は無いようです。

リーフ共和国興亡(第10回)

7.アルセマス上陸作戦
(2)D-day

 作戦行動は、まず、フランス陸軍から始まりました。
 1925年8月末、ペタン元帥率いるフランス軍主力10万人以上が、仏領モロッコから陸路北上し、攻勢をかけます。
 これに対して、リーフ軍も、果敢に応戦しました。9月3日には、ある駐屯地を攻撃して、守備隊200人をほぼ全滅させ、救援に来た部隊にも200人以上の大損害を与えることに成功しています。
 しかし、大きな視点で見ると、リーフ軍の兵力を誘引したことにより、フランス軍は陽動作戦に成功したとも見えます。

 1925年9月8日早朝、アルセマス湾西部に、スペイン・フランス連合の大艦隊が出現します。いよいよ上陸作戦開始の時が訪れたのです。
 西仏連合艦隊の兵力は、スペイン戦艦「アルフォンソ13世」「ハイメ1世」、フランス戦艦「パリ」以下、巡洋艦6隻、駆逐艦2隻、水雷艇6隻、スループ 6隻、輸送船26隻、「K」型揚陸艇26隻、病院船1隻、その他タグボートなど多数。それに、スペイン水上機母艦「デダロ」も、マッキM.18飛行艇を 12機搭載して加わっていました。
  rif_map2.png

 6時30分、支援艦隊が艦砲射撃を開始します。目標は、海岸近くに築かれたおよそ20箇所の砲台と、周辺の高地にある防御陣地でした。やや遅れて、空襲も開始されます。「デダロ」航空隊も、弾着観測や爆撃にあたります。
 11時、第一波上陸部隊が行動を開始します。上陸部隊総指揮官は、サンフルホ将軍。第一波の指揮を執るのは、フランコ大佐です。
 「アルセマス上陸作戦」といいますが、上陸地点は、正確にはアルセマス湾ではありません。湾のすぐ西隣にあたる砂浜です。
 アルセマス湾には、スペイン領のペニョン・デ・アルホセイマ(スペイン読みではアルセマス)という小島があったため、リーフ軍の警戒が厳重でした。そこでスペイン軍は、その裏を掻いたものと思われます。陽動のため、一部の艦隊がペニョン・デ・アルホセイマ付近にも砲撃を加えています。
Landing_of_Al_Hoceima.jpg 接近する上陸部隊を発見したリーフ軍も、あわてて可能な限りの火器で射撃を開始します。しかし、兵力が分散している上、大型火砲が少なく、あまり打撃を与えることはできませんでした。
 海岸から50mまで接近した揚陸艇は、すぐさま道板を下ろし、銃を手にした歩兵が駆け下ります。心配されたルノーFT-17戦車の揚陸も、順調に進みました。ただ、揚陸中に道板が傾いて兵士が投げ出される、うっかり事故の決定的瞬間を捉えた写真も残っています。(こちらのサイトで見ることができます。6番目の写真、向かって左の揚陸艇に注目。)

 散発的に銃砲弾が飛んでくる中、上陸した部隊をまとめたフランコ大佐は、すぐに、揚陸地点東の岬突端にある砲台群の攻略にかかります。
 岬の砲台周辺には、鉄条網と塹壕が組み合わさった陣地があり、地雷まで敷設されていました。守備するリーフ軍兵士も、必死に応戦します。しかし、強力な艦砲と航空機に支援され、兵力でも優るスペイン軍は、15時までに岬のリーフ軍を完全に駆逐します。
 こうして、スペイン軍は、ひとまず橋頭堡を確保することに成功したのです。この日のうちに、第一次上陸部隊8千人の上陸が完了しました。スペイン軍が初日にうけた損害は、死傷約150人でした。

 翌日以降の戦闘の焦点は、揚陸地点正面にそびえる高地へと移って行きます。(第11回へ続く

追記
 上陸作戦の様子を記録したフィルムの映像をweb上で発見しました。
プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
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