山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
    --:-- | Top  このエントリーをはてなブックマークに追加

帝国の守護者(第6回)

4.「アウグスト・デ・カスティーリョ」の場合
 ポルトガル革命から4年後の1914年、かのサラエボの銃声をきっかけに、世界は大戦へと突入しました。
 当初、ポルトガルは中立を宣言します。
ポルトガル軍のアンゴラ増援部隊 といっても、何もしなかったわけではなく、アフリカの植民地に増援部隊を送り込むなど、それなりの戦闘態勢は取ります。葡領アフリカのアンゴラ、モザンビークは、いずれも独領アフリカと隣接していたので、英国寄り=連合国寄りのポルトガルとしては、警戒を強める必要があったからです。
 海軍も、領海の警備を強化したほか、アフリカ向けの輸送船には船団を組ませて、護衛を行いました。モザンビーク沖で独防護巡「ケーニヒスベルク」が暴れるなど、同盟軍の通商破壊の危険があったからです。防護巡「カンディド・レイス」(旧「カルルシュ1世」)などが、護衛任務に就いています。

 1915年末、友邦英国は、ポルトガルにある要求をしてきます。それは、領内に避難している同盟国商船の接収と引渡でした。Uボートの跳梁により、船腹不足の危機に立たされた英国が考えた、窮余の策でした。
 実行すれば事実上の宣戦布告です。ポルトガルは悩みましたが、結局、英国の強い要求に屈し、1916年2月に接収に踏み切ります。オーストリア船2隻を含む、72隻の同盟国商船が敢え無く囚われの身となりました。(追記参照)
 当然、ドイツをはじめとした同盟国は、ポルトガルに宣戦を布告。3月には、独領東アフリカ軍が、葡領モザンビークに侵攻を開始しました。東アフリカ戦域では、英葡連合軍と独軍の間の戦闘が終戦まで続きます。ツェッペリンの硬式飛行船「L59」による長距離空輸が行われたことでも知られます。映画「アフリカの女王」の舞台となったのも、この独領東アフリカ戦線です。

哨戒トローラー_アウグスト・デ・カスティーリョ 海上護衛強化の必要に迫られたポルトガル海軍は、英国にならいトロール漁船型の特務艇・特設艇を導入します。
 特設砲艦「アウグスト・デ・カスティーリョAugusto de Castilho」も、その1隻でした。「カスティーリョ」は、口径60mmと47mmの大砲を1門ずつ備えていました。英国流に言うと、哨戒トローラーでしょう。

 1918年10月、「カスティーリョ」は、マデイラ諸島からアゾレス(ポルトガル読みではアソーレス)諸島へ向かう客船「サン・ミゲルSão Miguel」を護衛していました。
 14日、2隻の目の前に、浮上航行中の潜水艦が姿を見せます。それは、ドイツ潜水艦「U139」でした。もちろん、通商破壊戦のために作戦行動中です。
 ポルトガルの2隻は速力を上げると逃げ出します。「カスティーリョ」は、煙幕発生材を次々に海中に投じ、独潜の目をくらませようとしますが、じきに煙幕材は尽きてしまいました。
 客船「ミゲル」の周りに、水柱が立ち始めます。このままでは「ミゲル」は餌食。「カスティーリョ」の艇長である中尉は、囮となって交戦する決意を固めました。小さな「カスティーリョ」は、反転します。
 「カスティーリョ」にとって不運なことに、相手の「U139」は、最新鋭の巡洋型潜水艦でした。150mm砲2門を備えて水上砲戦は大得意の、小型艇には嫌な相手です。接近に気付いた「U139」は、「ミゲル」を追跡しつつ、砲の狙いを「カスティーリョ」に変えます。
 直撃こそないものの、「カスティーリョ」はたちまち破片を浴びます。しかし突撃を止めません。
 とうとう気迫に負けたか、「U139」は進路を変え、「ミゲル」から離れだしました。体当たりの危険を感じたのかもしれません。それを見た「カスティーリョ」は、再び反転すると「ミゲル」を追いかけて、逃げ出します。

 ところが、これで逃がしてくれるほど、海の狼は甘い相手でありませんでした。しばらくすると、またも速力を上げ、2隻の獲物を追い始めたのです。「カスティーリョ」は、後部47mm砲で応戦しながら逃げましたが、交戦2時間ほどしたとき、もう弾がなくなってしまいました。
 艇長はまたも反転を命じました。残弾のある前部の60mm砲で、まだ戦うつもりなのです。悲壮な突撃が始まります。次々と至近弾を浴び、破片でマストやボートが壊れていきます。甲板の乗員は、バタバタと倒れました。
 そして、とうとう60mm砲の弾丸も、底を尽きました。
 「ミゲル」の方は、この間に遠く逃げ去っていました。もうこれで十分、と艇長は判断します。機関停止が命じられ、穴だらけの軍艦旗が半分降ろされました。降伏を決断したのです。
 にもかかわらず、「U139」の砲撃が止みません。急いで降伏信号旗も掲げられますが、変わらず砲弾が降ってきます。その一片が艇長も貫き、勇敢な彼はここで戦死してしまいました。

 生き残りの乗員たちが絶望に沈みかけたとき、「U139」の至近距離で派手な爆発が起きました。もう、こちらは弾切れなのに。
 援軍でしょうか?
 いいえ。暴発事故でした。砲口から飛び出した途端、砲弾が爆発したのです。気まぐれな戦場の神が、「カスティーリョ」に救いの手をさしのべたのでした。燃料タンクを損傷した「U139」は、ようやく砲撃を打ち切りました。
 生き残りのポルトガル乗員たちの半分は、1隻だけ無事だった救命艇に乗り脱出しました。乗り切れなかった半分も、損傷した救命艇をなんとか修理して、後から脱出。水も食料も無い状態で、200海里の苦しい航海の末、アゾレス諸島にたどり着くことに成功したのです。ただ、さらに1名が救命艇の上で死亡しています。
 乗員の見守る中「カスティーリョ」は、爆発沈没しました。残弾がなかったのに爆発したというのですから、魚雷によって沈められたのでしょうか。
 「U139」の方は、その後フランスへ入り、再び出撃することなく11月24日に降伏しています。

 この「カスティーリョ」の小さな戦いは、ポルトガル海軍が第一次世界大戦で経験した唯一の海戦でした。
 このほかの海上戦闘といえるのは、商船が潜水艦の犠牲になったほかは、独潜「U156」により1917年末にマデイラ島が砲撃されたのと、特設掃海艇「ロベルト・イベンスRobert Ivens」がリスボン沖で触雷沈没した程度です。
ポルトガル遠征軍団の兵士と迫撃砲 一方で、陸上ではもっと大きな犠牲を支払う羽目になっていました。西部戦線にポルトガル遠征軍団CEPの名の下2個師団を派遣したのですが、これが 1918年春のドイツ軍最後の攻勢「カイザー」により壊滅的損害を受けたのです。英軍戦線の弱点と見抜かれたポルトガル軍は、集中攻撃を浴びました。派遣軍を編成できたこと自体が「タンコスの奇跡Milagre de Tancos」(タンコスは訓練地名)と呼ばれたくらいの弱小軍隊でしたから、独軍お得意の浸透戦術の前に、なすすべもなく潰走して7000人以上の死者を出したようです。ほか負傷10000人以上、捕虜12000人でした。もっとも、この数字は、カイザー戦の両軍損害計160万人のうちのほんの一部に過ぎません。(画像は迫撃砲を操作するCEPの兵士)
 アフリカ戦線での死傷者も1万5千人と言われます。おまけに陸軍主力が外征中でがら空きとなってしまった本国では、クーデターを招いてしまい、ここでも犠牲を生じてしまいます。

 1919年第一次世界大戦終結。
 小国にとっては大きな犠牲を支払った結果、ポルトガルは戦勝国に名を連ねることができました。賠償として独領東アフリカの一部と、旧オーストリア=ハンガリー二重帝国海軍の水雷艇6隻を獲得します。他に、トルコからも「ベルクBerk」級水雷砲艦1隻を得られるはずでしたが、トルコ革命により反古にされています。(さらに追記の通り拿捕船舶多数も取得。)
 ただ、収支として割に合ったかというと、赤字でしょう。大戦前半の中立期には戦争特需で儲けたようですが、後半の人的・物的損失は耐え難いものでした。クーデター発生で明らかなように政情不安はますばかり。1919年には、王党派が北部で割拠して「王国」を名乗る事態にまでなっています。
 こうした中、国民の国家再建の期待を一身に背負い、一人の経済学者が登場してくるのです。その男の名を、アントニオ・デ・オリベイラ・サラザールAntónio de Oliveira Salazar博士と言います。(「マカウ」の場合へ

追記
 参戦時に接収した同盟国船舶は72隻、総トン数24万2千トンにも上っていました。これは当時のポルトガルの保有船腹7万3千tの3倍以上に相当します。
 このうち優秀船を中心に42隻(15万t)が英国に貸与され、その半数以上の22隻(6万5千t)が戦没して帰りませんでした。ポルトガルの手元に残った分と、返還された20隻は、新設された国営企業の保有となりましたが、採算が取れず数年で企業は解散。民間に売却されました。

帝国の守護者(第7回)

5.「マカウ」の場合(前編)
 1909年、英国スコットランドのヤーロー造船所で、一隻のポルトガル軍艦が進水しました。
河用砲艦マカオ_舞子 名前を、河川砲艦「マカウ(マカオ)Macau」と言います。
 新造時の要目:排水量95t、速力12kt
           兵装57mm×2、7.7mmMG×2
 その名の通り、ポルトガルが中国に持つ植民地マカオを警備するための専用艦でした。あまりに小型かつ喫水も浅いため、自力での回航は不可能で、輸送船に搭載されて香港へ運ばれ、そこからマカオへ到着しました。最終艤装も、香港へ移動してから行われたようです。

装甲艦ヴァスコ・ダ・ガマ 到着後の「マカウ」は、ポルトガル極東艦隊に所属することになります。この当時のポルトガルは、極東に、装甲巡洋艦「ヴァスコ・ダ・ガマ」(左画像)、防護巡洋艦「アメリア王妃」、大型砲艦「パトリアPatria」などの比較的大きな兵力を持っていました。
 根拠地となったマカオは古くからポルトガルの影響下にあった土地で、アヘン戦争の少し後に事実上の占領をした土地です。以来、ポルトガルの最大にしてほぼ唯一の中国拠点になってきました。17世紀にはオランダの攻撃を受けながら、要塞砲でオランダ艦を撃沈して守り通したこともあります。
 就役翌年の1910年にポルトガル本国では革命が起きても、はるか極東の地では大きな変化はなく、「マカウ」は、淡々と警備任務に就きます。僚艦たちは徐々に入れ替わりましたが、「マカウ」は変わりません。サラザール体制下では、新造された警備スループやホーカー「オスプレイOsprey」水上機数機が、極東に追加配備されたようです。
 こうして「マカウ」は、マカオに張り付いたまま、太平洋戦争という激動の時を迎えることになるのです。

 ただ実は、「マカウ」は、太平洋戦争以前にも一度だけ、戦闘を経験したことがあります。それは、就役翌年の1910年、革命直前の夏のことです。
 マカオ近くにコロアンColoane島という島があります。マカオ本土と同じくポルトガル領でしたが、この当時、海賊の根城となっていました。現在では本土と橋でつながっていますが、もちろん当時は橋はなく、船で渡るしかありませんでした。
 ようやく警察が本腰を入れて掃討作戦をすることになり、極東艦隊も、支援に出動することになったのです。
ポルトガル海軍歩兵 7月12日、砲艦「パトリア」「マカウ」が艦砲射撃をする中、武装警官隊100人が島に上陸します。ところが、武装した海賊の抵抗は激しく、警察側にも次々と死傷者が出る始末。香港で待機していた防護巡「アメリア王妃」が応援に駆けつけ、「マカウ」らと共に陸戦隊を上陸させたため、1週間後の7月19日になってようやく投降させることに成功しています。(右画像は19015年撮影のポルトガル海軍歩兵)
 植民地駐留の砲艦にとって、治安維持は重要な任務です。それが、たまには割合派手な働きになることもあるという一例。

 さて、1941年12月、日本軍が連合国との戦争状態に突入し、太平洋戦争が始まります。これに先駆け、欧州では、すでに大戦が始まっていました。
 ポルトガルは、第一次世界大戦同様に、中立を宣言します。ポルトガル首相で、事実上の独裁者(形式的には元首の大統領がいます。)であったサラザール博士は、しばしばヒトラーと同列のファシストとされますが、そう単純でもなかったようです。枢軸国側に参陣することはありませんでした。むしろ、連合国寄りと言うか、英国寄りと言ってよいかもしれません。
 中立国としてのポルトガルは、両軍の外交の窓口となったり、諜報戦の舞台になったりしていきます。例えば、日米間の外交官・民間人の捕虜交換は、葡領モザンビークのロレンソ・マルケスを交換点として行われました。(後編へ続く

帝国の守護者(第8回)

5.「マカウ」の場合(後編)
 日本軍の快進撃の前に、極東の連合国勢力は一掃されてしまいます。
 その中、孤立した極東ポルトガル領は、本国から半ば見捨てられていきました。サラザール首相は植民地死守を宣言して、モザンビーク、アンゴラ、インドのゴアなどへの海軍展開を公約します。その公約の中に、マカオや東ティモールは含まれていませんでした。
 葡領東ティモールは、連合軍、ついで日本軍により保障占領されてしまいます。遅まきながら増援部隊を送る計画もあったのですが、実現しませんでした。
 もっとも、ポルトガルが本気になったとて、どうだったかはわかりませんが。死守を宣言したインドのゴアもドイツ情報船に利用され、それを狙った英軍工作員が潜入する事件が発生しています。

 「マカウ」は、ひっそりとマカオ港内に息を潜めていました。幸い、マカオは両軍いずれの直接占領を受けることもなく、中立が維持されていました。ただ、うかつに出港すると誤爆を受けかねなかったのです。
 そんな彼女に、身請け話が決まります。一隻でも多くの軍艦を必要とした日本海軍が目を付け、これと維持費に困ったポルトガルの利害が一致したのです。ポルトガル海上帝国から、大日本帝国へ。
 1943年2月、「マカウ」は日本海軍に引き渡され、香港の海軍工作部で整備を受けます。居住設備や防弾板などが追加されたため、排水量が130tに増加、速力は5kt強まで低下したようです。8月15日、新しい名前「舞子(まいこ)」が授けられ、日本海軍の軍艦となります。艦首には菊の御紋が輝いていました。(以下、「舞子」と呼称します。)
 所属は、第2遣支艦隊の香港方面特別根拠地隊、広東警備隊で、西江下流のデルタ地帯の警備が任務と決まります。

 1944年6月、警備任務を続けていた「舞子」に、重要任務が命じられます。陸軍の「一号作戦」への協力です。
 「一号作戦」別名「大陸打通作戦」は、日本陸軍最大の作戦のひとつで、投入兵力は40万人を超え、行軍距離は実に2000kmという壮大なものでした。作戦目的は、大陸方面の航空基地占領による本土空襲の阻止と、北京から仏印の鉄道線の確保にありました。
 「舞子」は作戦後半の「ト号作戦」(武漢から仏印)の水上補給路確保に当てられることになります。水路周辺の中国軍の掃討と、機雷掃海(河ですが。)が仕事です。
 1944年9月11日、「舞子」に出撃のときが来ます。「舞子」は広東警備隊司令の小倉外吉海軍大佐の旗艦となり、特型砲艇1隻、砲艇6隻、大発8隻などを率いて西江を遡上開始しました。出撃前の再度の改装工事により、兵装は英国製76mm高射砲と20mm機銃に強化され、代わりに菊の御紋は取り外されていました。陸軍兵士用の仮設居住区も用意され、陸兵も乗船しています。
 川岸の敵軍陣地と交戦しながら遡上することになりますが、本当の脅威は空襲でした。出撃から数日で米軍のP-51戦闘機等の攻撃を受けるようになります。
 やむなく夜間航行に切り替えて前進を続けましたが、9月24日、河口から120kmほど上流の地点に仮泊しているのを発見され、激しい銃撃を受けます。必死の応戦も虚しく、小倉司令以下4人が戦死し、負傷者多数を出してしまいました。「舞子」も浸水してしまい、ここで航行不能に陥ってしまいます。
 生き残りの砲艇に曳航され、「舞子」は戦線を離脱しました。
 それでも、9月30日までに残存部隊によって残りの100kmの掃海も完了し、任務は成功しました。この間に処分した機雷は200個以上に上ります。

 「舞子」らの犠牲によって開かれた水路を通り、多くの補給物資が前線に運ばれました。
 11月には、陸軍部隊が仏印へ到着し、「一号作戦」は完了しました。帝国陸軍最後の勝利とも言われます。もっとも、空襲阻止と鉄道輸送という戦略目的に関してみると、さらなる奥地からの空襲は続き、鉄道も十分利用されることはなかったという点で、無意味だったという評価が多いようです。同じ11月には、サイパンからの本土空襲が始まるという皮肉なことになっています。
 大破した「舞子」は、香港で修理を受け、再び下流域の警備任務に就きます。
 しかし、制空権の喪失により行動は制限され、1945年には昼間行動不能になっていました。「マカウ」だった頃の最後と同じく、息を潜めて隠れるだけでした。米軍来攻の際には、兵装撤去の上、河口付近に自沈して水路閉塞に当てられる予定だったと言います。

 1945年8月15日、日本降伏。連合軍による武装解除が始まり、「舞子」も国府軍によって接収されます。広東艦隊に配属となった「舞子」はまたも名を変え、中華民国砲艦「舞鳳Wufeng」となります。
 国共内戦の結果、1949年10月、「舞鳳」は中共軍に投降します。中華人民共和国砲艦「3-522号」となった「マカウ」は、1960年代初頭まで海軍籍にあったようです。「帝国主義の尖兵」が、共産主義国の軍艦となるとは、奇妙なものです。
 「マカウ」が護ったマカオが、中国に返還されたのは、「マカウ」退役から30年以上後の1999年のことになります。(「アフォンソ・デ・アルブケルケ」の場合へ

追記
シーウルフ [DVD] なお、退役した後の「マカウ」の運命はよくわかりません。一説によれば、民間に払い下げになって、最近まで西江で使用されていたと言います。
 もし、広東へ行かれる機会があったら、川面に彼女の姿がないか、ちょっと探してあげて下さい。

 ゴアでのドイツ情報船とイギリス軍特殊部隊の戦闘については、グレゴリー・ペック主演で映画化されています。「シーウルフ」(原題“THE SEA WOLVES”、1980年)がそれです。

帝国の守護者(第9回)

6.「アフォンソ・デ・アルブケルケ」の場合(前編)
 少々さかのぼって、第一次世界大戦後のポルトガルでは、政情不安が続いていました。
 1926年、共和派のゴメス・ダ・コスタ将軍がクーデターを起こし、軍事政権が成立します。その後、実権を奪い、大統領に就任した王党派のカルモナ将軍が、財政再建を担う蔵相に起用したのが、コインブラ大学教授のアントニオ・デ・オリベイラ・サラザール博士でした。
 サラザール博士は、聴講届けを出さない学生までも授業に出るほどの人気教授だった人物です。大臣就任直後、軍の干渉にうんざりして一度は辞任しますが、カルモナ大統領に全権委任を受けて、1928年に蔵相に再就任。緊縮財政と行政改革により、奇跡的な財政再建を成功させます。
 1932年には首相を兼任します。翌年には憲法を改正、以後40年近くにわたるサラザール独裁体制、いわゆるエスタド・ノヴォEstado Novo(新国家)の幕開けです。カトリック的色彩と、規律と共同体結合を重視した内政、反共産主義に、植民地の固持という独特の国家体制と言われます。

 財政再建の成功と、植民地重視政策のため、1930年代にはひさびさに海軍艦艇の更新が実現します。駆逐艦7隻、潜水艦3隻、それに植民地用の通報艦6隻などです。建造はまたも英国頼みですが。
Albuquerque.jpg そのうちの一隻が、1934年就役の一等通報艦「アフォンソ・デ・アルブケルケAfonnso de Albuquerque」でした。通報艦avisoというのは、もともとは艦隊内の連絡用に用いられた、小型の巡洋艦と砲艦の間のような艦種のことです。無線機の発達により本来の意義は失われていましたが、フランスなど一部の国で植民地警備用の大型砲艦の分類として復活しています。英国流に言う警備スループと同じといってよいでしょう。
 要目:基準排水量1780t、速力21kt、兵装12cm×4、76mmAA×2、40mmMG×2、水上機1
 一応の水上機搭載能力を有するあたり、フランスの通報艦「ブーゲンヴィユBougainville」級に近い性能と言えます。ポルトガル海軍の広報誌“Revista da Armada”の2006年3月号に、水上機搭載状態の美しい写真が載っています。搭載機は、ホーカー「オスプレイ」水上機のようです。
 艦名の由来は、インドのゴアを征服したポルトガル史上最高の軍人と言われる人物です。同型艦「バルトロメウ・ディアス(バーソロミュー・ディアス)Bartolomeu Dias」と並び、大航海時代の栄光を思い出させる名前であります。

 サラザール政権は、国家主義的色彩が強いながらも、独伊枢軸とはやや距離を置いていました。この点、隣国スペインに成立するフランコ政権とよく似ています。
 そのフランコ政権が成立するのは、1936年7月に勃発するスペイン内戦によってでした。(詳細は、こちらの別記事シリーズを。)
 スペイン内戦が始まると、ポルトガルは、独伊枢軸と共にフランコ率いる国粋派を支援します。スペイン国粋派への援助物資はポルトガル領に陸揚げされ、その後、陸路で輸送されています。

 内戦開始2ヵ月後の9月、今度はポルトガル海軍で反乱事件が発生します。
 首都リスボンを流れるテージョ川に浮かぶ艦隊が、サボタージュを起こしたのです。反乱艦隊の中核は、スループ「アルブケルケ」「ディアス」姉妹で、それに駆逐艦「ダウンDáo」が加わっていました。
 反抗の理由ははっきりしません。一説によれば、艦隊内のスペイン共和政府シンパが、スペイン共和派支援のために行動を起こしたのだとされます。少し消極的に、国粋派支援のため艦隊が派遣されるという噂が流れたため、出撃拒否の騒ぎが起きたとも言います。また、反乱参加者の証言とされるものによれば、直接的な動機は、スペイン内戦ではなく、脱獄中の海軍共産党員の特赦を要求するためだったともあります。おそらく、これらのいずれもが正しく、あまり統一的な意思はなかったのではないかと、個人的には思います。
 鎮圧のためのポルトガル政府軍とのにらみ合いが続いた後、9月8日、「アルブケルケ」「ダウン」の2隻が動き出します。テージョ川を海に向かって下り始めたのです。
 これに対してサラザール首相(蔵相・外相・陸相・海相兼任)が採ったのは、強硬手段でした。要塞砲による直接砲撃を命じたのです。
 直ちに、沿岸要塞の15cm砲などが砲撃を開始しました。「アルブケルケ」に次々と砲弾が直撃、甲板は血に染まりました。損傷した「アルブケルケ」は停止し、反乱艦隊はついに投降します。砲撃による死者は10人、負傷者多数にのぼりました。

 なぜ、サラザール首相は、こうした強硬策を採ったのでしょうか。
 もしかしたら、1910年のポルトガル革命の記憶が蘇ったのではないか、と思います。あの時は、海軍艦艇の王宮への艦砲射撃が、帰趨を決しました。今度は共産主義者の手によって、それが再現されるのではないかと、博士は恐れたのではないでしょうか。この当時、ポルトガル海軍内部には、共産主義者がかなりの数存在していましたから。

 制圧された3隻からは、反乱兵たちが引きずり出されました。中心人物とみなされた60名あまりは、カーボ・ベルデCabo Verde諸島へ流刑となっています。その多くが、マラリアや飢餓に倒れたものと思われます。
 損傷した「アルブケルケ」は修理され、引き続き植民地警備にあたりました。マカオの警備に訪れたこともあります。終戦直後には、日本軍に占領された東ティモールの奪還作戦にも、姉妹艦と揃って参加しています。
 中立政策のおかげで、第二次世界大戦を無事に生き延びた「アルブケルケ」。しかし、その先にもう一度、砲火に身を晒す運命が待ち構えていたとは、誰に予想できたことでしょうか。(後編へ続く

帝国の守護者(第10回)

6.「アフォンソ・デ・アルブケルケ」の場合(後編)
 1945年、第二次世界大戦終結。
 大きな戦争の終りは無数の小さな戦いの始まりでした。疲弊したヨーロッパの本国に対して、世界中の植民地が独立を求めて動き始めたのです。時に泥沼の戦闘を伴いながら、東南アジアや北アフリカ、中東では、次々と独立が実現していきます。
 インドも例外ではありませんでした。1947年に英国は帝国の象徴だったインドの独立を認めます。時代の流れは急速に変わっていたのです。

 インドに植民地を保有していたのは英国だけではありません。フランス、そしてポルトガルも小さな植民地を残していました。独立したインドは、当然、両国に対しても植民地の返還を求めてきます。
 フランスは、交渉の末に住民投票を条件として返還を容認します。1954年までには仏領インドが消滅しました。
 これに対して、ポルトガルは交渉を拒絶します。おそらく、わずかでも譲歩を見せたなら、インドばかりでなく他の植民地でも独立運動が激化することを恐れたのだと思います。当時のポルトガルは、依然としてアンゴラやモザンビーク、東ティモールなどを領有する植民地帝国でした。
goa_map.png
 (第二次世界大戦後のポルトガル領インド。面積は正確にはもっと狭い。)

 ポルトガルのサラザール首相はインドの死守を命じ檄を飛ばします。指令に従い「アルブケルケ」もインドのゴアに展開してポルトガル軍艦旗を翻します。
 インド側も徐々に実力行使を行い、しめつけを強めます。手始めに内陸部のダトラとナガル・アベリの通行を制限すると、1954年7月には「義勇兵」を送り込みます。駐留するポルトガルの警察官と小競り合いした程度で占領。独立を宣言させたうえ、併合してしまいます。ポルトガルは通行制限のために増援部隊が送れなかったのです。
 ポルトガルは自由通行を求めて国際司法裁判所に提訴します。国際司法裁は通常は当事国双方の同意が無いと裁判できませんが、インドは一方的提訴を認める選択条項に署名していたため、こうした訴訟が可能でした。1957年には判決が出て、両地域に対するポルトガルの主権が認められます。しかし、一方で軍隊についての通行権は認められなかったため、結局、ポルトガルは両地域を奪還することはできませんでした。
 さらにインドは、非武装の群集で、残るゴアやディウの占領を試みます(1955年)。今度はポルトガルが実力を行使しました。ポルトガル軍の銃撃により22名が死亡し多数の死傷者が出る惨事となります。
 国際的な非難の高まりを無視してサラザール首相はなおも交渉を拒絶します。1960年にインドが提案した、特権維持を認めた妥協案も相手にしませんでした。

 1961年、ついにインドは最終手段をとる決心をします。いわゆるゴア武力解放(ゴア接収)です。
 現地のポルトガル総督府もこのインド側の動きを察知していました。増援部隊を送るよう本国へ要請し、守りを固めようとします。総督は「ショリソを送られたし」という電文を打っていました。ショリソとは、チョリソ・ソーセージのこと。これは、対戦車グレネードを意味する暗号でした。ところが、本国政府が送ってよこしたのは本物のソーセージだったのです。本当は要請に応じて弾薬を空輸しようとしたのですが、周辺国が中継基地の利用を拒絶したため不可能となり、代わりにとぼけて本物のソーセージを送ったという真相だったようです(注1)。かくもポルトガルの政府組織は腐敗していました。物質戦力比は隔絶、人的面でもこれでは、勝敗は戦う前から明らかだったのです。

 12月18日早朝、インドの海軍部隊が動き出します。
 ゴア攻略:フリゲート「ベトワBetwa」「ベアスBeas」、スループ「カヴェリーCauvery」
 ディウ攻略:軽巡洋艦「デリーDelhi」
 アンジェディバ島攻略:軽巡洋艦「マイソールMysore」、フリゲート1隻、「INS Venduruthy」基地の陸兵
 支援機動部隊:空母「ヴィクラントVikrant」、フリゲート3隻、旧式駆逐艦1隻
 これに補給艦1隻と掃海艇4隻も加わった大部隊でした。アンジェディバAngediva島とは、ゴアの南方に浮かぶ小島です。

 対するポルトガル海軍の兵力は、以下のようなものでした。
 ゴア:スループ「アルブケルケ」、哨戒艇「シリウスSirius」
 ディウ:哨戒艇「ベガVega」
 ダマン:哨戒艇「アンタレスAntares」
 最有力艦が「アルブケルケ」。3隻の哨戒艇は20mm機銃1基を持っただけのモーターボートです。航空部隊の支援もありません。

 インド側のゴア攻略艦隊は湾内に侵入してきます。そして、停泊中の「アルブケルケ」の姿を発見しました。
 このとき、ポルトガル海軍によると「アルブケルケ」では作戦会議の途中だったとされます。一方、インド海軍によると、基地攻撃に飛来したインド軍機を迎撃していたといいます。いずれにしても、インド艦隊の出現は奇襲攻撃になったようです。
 3隻のインド艦は、8000ヤード(7.3km)の距離から「アルブケルケ」に対して砲撃を開始します。「アルブケルケ」も緊急出航し、かなわぬながら応戦をします。インド側のうち2隻は英41型「レパードLeopard」級の新鋭フリゲートで、残る「カヴェリー」は、第二次世界大戦型の英「ブラック・スワンBlack Swan」級スループでした。最弱の「カヴェリー」だけでも「アルブケルケ」と互角です。艦齢30年近い老嬢には、いささか手強すぎる相手でした。
 短時間ながら激しい砲撃戦の後、直撃弾多数を浴びた「アルブケルケ」は、自ら擱坐して果てました。戦死者1名、重傷者が艦長ほか10名と、奇跡的に人的損害は小さかったようです。

 他のポルトガル艦も次々と後を追いました。「アルブケルケ」と同じくゴアに在泊の哨戒艇「シリウス」と、ダマンの「アンタレス」は、対空戦闘に従事した後に自沈。
 ディウの「ベガ」も、インド巡洋艦「デリー」との直接対決はあきらめて、インド軍機2機を相手に対空戦闘をしましたが、必死のジグザグ航行でもかわし切れずに撃沈されました。インド側の主張によれば「デリー」はポルトガル船2隻を砲撃して1隻を撃沈、1隻を自沈に追い込んだとありますが、あるいは後者は「ベガ」のことを遠望して誤認したのでしょうか。なお、インド艦「デリー」は、元英軽巡「アキリーズ」で、かつてラプラタ沖海戦において独装甲艦「シュペー」を自沈に追い込んだ古強者でした。
 こうしてポルトガル極東艦隊は全滅したのです。

 陸上でも小規模な戦闘があった後、翌12月19日にポルトガル総督府は降伏しました。ポルトガル軍死者31人、インド軍死者34人(注2)。総督以下3000人が捕虜となりました。
 ポルトガル政府では、潜水艦2隻・駆逐艦1隻・補給艦1隻の救援艦隊派遣も検討されましたが、間に合いませんでした。仮に間に合ったとしても、かえって損害を増すだけだったでしょう。
 1622年にアルブケルケ提督が占領したゴアは、340年ぶりに、護る「アルブケルケ」の手から奪い返されたのです。

 紛争前のまだ平和だった頃、「アルブケルケ」は、警備と同時に練習艦任務にも就いていました。士官候補生を乗せての練習航海の途上、1960年には日本の横浜にも寄港しています。戦後初めて来日したポルトガル軍艦として、話題になったそうです。若者を育てながら過ごす晩年。そのまま静かに生涯を終われたなら、きっと、そのほうが彼女にとっては幸せだったことでしょう。
 沈没した「アルブケルケ」の残骸は、1966年に引き揚げられ解体されました。(エピローグへ

注記
1 ポルトガルの現地部隊が要請した物資は、阿部真隠「波乱万丈のポルトガル史」(泰流選書,1994年)など対空兵器とする日本語資料もあり。また、本物のソーセージが送付された事情について、本国側が暗号を忘れていたからとの説明もあるが、 ∵ごま∴@kurumigi氏の調査によると正確には本文のような事情だったようである(参考ツイート1ツイート2ツイート3)。(2012年12月19日訂正)

2 ポルトガル軍死者17人、インド軍死者20人とする資料もあり。
プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
連絡したいことがある方は、記事のコメント欄か、サイドバー下方のメールフォーム、あるいはツイッターから、お気軽にどうぞ。
Twitter:baron_yamaneko

最新記事
カテゴリ
検索フォーム
参加企画
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ
にほんブログ村 その他趣味ブログ ミリタリーへ
リンク
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール(不要ならそのまま):
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。