山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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回転翼の海鳥たち(第6回)

6.それは風任せで
(承前)世界に先駆けてヘリコプターを艦上で使用したドイツ海軍ですが、ほかにも特殊な回転翼機を実戦投入しています。それが、Fa330「バッハシュテルツェBachstelze(海セキレイ)」です。
FA-330_Bachstelze.jpg これは、無動力のオートジャイロ凧とでも言うべきものです。普通のオートジャイロがプロペラで前進して風力を得る代わりに、潜水艦で牽引して風力を発生させ、空を飛ぼうという仕掛けです。
 スタジオジブリの「天空の城ラピュタ」のなかで、ドーラ一家の海賊飛行船から、主人公パズーとシータを乗せて飛んでいた凧型の見張り台がありますが、元ネタはこれかと思われます。

 潜水艦の見張り用として、前出のフォッケアハゲリス社により1942年に開発され、実戦配備されました。背の低い潜水艦の監視能力を補う狙いです。運用高度120m程度まで上がれ、甲板からの5倍にあたる40km以上の視程が確保できたようです。
 ただ、逆に敵にも発見されやすく、そのうえ急速潜航の際は、最悪パイロットを見捨てることになります。
 潜水艦搭載航空機というアイディアは、世界中で研究されましたが、本格的に実用化したのは日本海軍だけです。ドイツ海軍も、アラドAr231という左右非対称の妙な水上機を開発してみたものの、結局は実用をあきらめています。そして代わりに、Fa330という奇妙な答案を考え出したというわけです。

 Fa330は、およそ200機が生産され、主にIXD型の大型潜水艦に配備されました。これらの大型潜水艦はインド洋や太平洋方面まで行動しており、比較的安全なインド洋でFa330を使用したようです。
uboat.png(IXD2型後期仕様)
 長大な航続力を持つIXD型Uボートは、はるばる日本占領下の港湾にも進出して作戦しています。「深海の使者」で知られるドイツへ行った日本潜水艦と逆のパターンです。マレー半島西岸のペナン島にはドイツ海軍の基地が設置されて、仮装巡洋艦で運ばれたAr196水上機部隊まで展開していました。
 一説によると、独潜のFa330と、日本潜水艦の搭載機(零式小型水偵?)若干が交換されたことがあるとされます(追記参照)。もっとも、Fa330が日本の航空技術になんらかの影響を与えたという話は聞きません。交換に引き渡された日本機は、Ar196と一緒に出港前の対潜警戒に使われたと言います。枢軸側の艦船は、出港時に連合軍潜水艦の待ち伏せを受けるケースが多かったからです。
 ドイツ降伏時に、「U181」と「U862」の2隻のIXD型は日本海軍によって捕獲され、「伊501」「伊502」となっています。このときにFa330も鹵獲されているかもしれません。

 ちなみに、Fa330は、連合軍によっても鹵獲されています。インド洋で作戦中の母艦「U861」ごと、捕まってしまったのです。
 鹵獲されたFa330は英軍によって研究され、それなりに高い評価を得たようです。オーストラリア陸軍が、ニューギニア戦線での弾着観測用にジープ牽引式の同種機体を研究していたようですが、その参考にされたかもしれません。

 Fa330の一応の成功の後、フォッケアハゲリス社は、エンジン付きの改良型Fa336ヘリコプターをも計画しましたが、これは計画のみに終わります。一部日本語文献では、量産されたかのような記述も見られますが、実際には試作にも達しなかったようです。(第7回へ続く

追記
 Fa330と零式小型水偵の交換が行われたとする説の初出は、知る限り、米国の“Air Power”誌83年3月号の記事のようです。ただ、これは、別の本の参考文献として記載されていただけなので、直接の確認をできておりません。
 もし、どなたか、この原資料ないし、もっと以前の出典をご存知の方がいらっしゃれば、お教え頂けると幸いです。

 インド洋でのドイツ潜水艦の活動については、「英語で読む海戦史」さんの記事にも記述があります。一定の戦果を挙げているようです。

 YoutubeにFa330の飛行作業の動画がありました。

回転翼の海鳥たち(第7回)

7.父さんはロシア生まれです。
 その男、イーゴリ(イゴール)・シコルスキーは山高帽の礼装に身を包み、1939年9月14日、コネチカットの空へと舞い上がりました。アメリカ初の実用級ヘリコプターが成功した瞬間でした。
vs300.png 米国でヘリコプターの父と呼ばれるシコルスキーは、その名の通り、ロシア出身の航空技師です。帝政ロシアの巨人機群を生み出した天才は、革命の猛威を逃れて米国へと亡命していました。そして、長年の夢であったヘリコプターを開発したのです。
 シコルスキーの作ったVS-300は、長い尾部の先端に横向きの小型ローターを取り付けて回転トルクを打ち消す方式でした。以後、全世界の標準となる方式です。

 シコルスキーの実験に招待された軍幹部は、この発明に飛びつきました。
 米陸軍は、ただちに試作型XR-4の開発を命じます。VS-300を発展させたXR-4が完成すると、ついで1942年5月には先行量産型YR-4を30機発注します。さらには量産型R-4B、新型のR-5、R-6と続きます。
 英空軍も50機以上を購入してくれました。
 これらの機体は、第二次大戦中にはビルマ戦線などで実戦投入され、前線からの負傷者救助に活躍しています。

 一方、海軍での利用研究も1941年には始まっていました。
 Uボートの脅威に苦しむ米英海軍は、米沿岸警備隊とも共同で委員会を設置します。通常艦船からの対潜哨戒に利用しようという狙いでした。
 そして、1943年5月7日、連合国初のヘリコプター艦上発着試験が行われます。陸軍から移管されたYR-4を使用して、英空軍のパイロットが操縦、目標はロングアイランド沖に浮かぶ米徴用タンカー「バンカーヒルBunker Hill」の仮設甲板。実験は見事成功し、ついで米側のパイロットによる実験も成功します。
 7月にも、西海岸を航行中の陸軍兵員輸送船「ジェームス・パーカーJames Parker」で、高速航行中の試験が行われ、実用可能との判定が出ます。

 しかし、米海軍は、そのうち熱意を失ってしまいました。おそらく、オートジャイロの場合と同様、通常航空機に比べての基本性能の低さに幻滅したものと思います。米海軍の場合、護衛空母をいくらでも量産できたという贅沢な事情もあったからでしょう。
 以後の研究は、米沿岸警備隊と英軍の間で進められる事になります。沿岸警備隊は、当時のヘリの実力を理解したうえで、「攻撃手段ではなく、索敵手段としてNot as a Killer but as the Eyes and Ears」の価値を見出していました。加えて、救助任務での活躍も期待していたのでしょう。
 沿岸警備隊は、巡視船「コッブCobb」を改装し、後部甲板に飛行甲板を設置します。同船は、沿岸警備隊のHNS-1(R-4B海軍型)部隊の練習艦として使用されました。
 そして、1944年1月、ついに艦上ヘリ隊の実戦の時がやってきます。(第8回へ続く

回転翼の海鳥たち(第8回)

8.海を渡るひよこ部隊
(承前)1944年1月3日、沿岸警備隊の実験ヘリコプター部隊に、緊急出動命令が下ります。任務は、輸血用血液の空輸。
 この日早朝、ニューヨーク沖に停泊中だった米海軍「ブリストル」級駆逐艦「ターナーTurner」が、爆発事故を起こしたのです。(画像は、準同型の「グリーブス」級。)uss_greaves.png
 あいにく吹雪に近い悪天候のため、ヘリコプター以外の航空機は離陸不能でした。そこで直ちに、基地から1機のHNS-1が、飛び立ちました。そして、見事に任務を成功させたのです。40組の輸血資材が運ばれ、多くの人命が救われました。

 同月末、今度は、対潜哨戒機としての、初の実戦任務を迎えます。
 英商船「ダゲスタンDaghestan」が、母艦としての改装を受け、飛行甲板などが設置されました。搭載されたのは、2機のHNS-1で、パイロットは英空軍と海軍、それに米沿岸警備隊の混成です。HNS-1には、11kgの小型爆雷8発が搭載できるようになっています。
 こうしてニューヨーク発リバプール行き船団に加入し、期待を受けて出港した「ダゲスタン」でしたが、結果は惨憺たるものでした。冬の大西洋は大時化で、ほとんど発着が不可能だったのです。「ダゲスタン」の動揺角は、常時10度を越えるという状態だったといいます。哨戒飛行が行われたのは、わずか2回のみに留まりました。
 以後の大戦中、連合軍側は、船団護衛に艦載ヘリを使うことは無かったようです。

uscg_cobb_r4.jpg しかし、艦載対潜ヘリとしての研究がストップしたわけではありません。米沿岸警備隊は、その後も巡視船「コッブ」を母艦として、研究を続けています。左のカラー写真は1944年に撮影されたもので、手前のHNS-1ヘリのほかに、奥には改良型のシコルスキーR-6が写っています。

 1945年2月には、「コッブ」搭載機に、ディッピング・ソナー(吊り下げ型のソナー)を装備させています。これは、もともと飛行船用に開発された機材を流用したものでした。こうしてヘリコプターは、着々と、潜水艦を追う「目と耳Eyes and Ears」として成長を続けていくことになります。(第9回へ続く

追記
 当時、米海軍は、多数の軟式飛行船を対潜哨戒に使っていました。
 うち1隻は、独潜との戦闘で撃墜されています。

回転翼の海鳥たち(第9回)

9.海の上のエンジニア
(承前)このほか、対潜ヘリとはまったく別の試みとして、米陸軍の航空機修理船に搭載されたR-4部隊が存在します。
 航空機修理船USArmy Aircraft Repair Shipとは、海上航空修理部隊Aircraft Repair Units, Floatingの装備する貨物船改造の移動航空廠のことです。海上航空修理部隊は、地中海戦域で前線航空機整備の困難を知った米陸軍が、太平洋戦域での使用を考え編成した特務部隊です。その存在は秘密とされ、暗号名「象牙色の泡Ivory Soap」で呼ばれていました。

 改造の原型となったのはC3型戦時標準船、いわゆるリバティー船で、1944年秋に6隻が改装されました。船内の修理設備のほか、前部甲板には発着スポットと駐機スペースが各1機分ずつある飛行甲板が設けられ、R-4Bヘリコプターが2機搭載されています。重機材運搬用の水陸両用車なども積んでいます。兵装はリバティー船の標準武装に若干機銃を足した程度でしょうか。
libertyship_r4_helicopter
 乗員は、陸軍の整備士のほか、海軍の射撃要員、民間の運行要員など多方面からの混成です。
 船名は、すべて将軍の名前をもらっていました。こちら「U.S.Warships」(日本語サイトです。)の陸軍USAARSの項目で、確認することができます。

 これら6隻の航空機修理船は、6つの海上航空修理部隊に配備され、1944年末からマリアナ諸島や硫黄島へ進出。損傷したB-29爆撃機やP-51戦闘機の修理にあたりました。修理された機体は再び日本へ向けて飛び立ち、多くの都市を焼け野原に変えたことでしょう。
 飛来する日本軍機とも交戦しています。「ハーバート・ダーグHerbert A. Dargue少将」号は、サイパンで2機、硫黄島で1機を撃墜したと記録されているようです。
 6隻分合わせ12機の搭載ヘリは、部品輸送や連絡任務、不時着搭乗員の救助などに幅広く活躍しています。大戦中、最も活躍したヘリコプター部隊かもしれません。(第10回に続く

追記
 なお、ヘリを積まない小型の航空機整備船を中心とした、海上航空整備部隊も18個編成されています。こちらは、いずれも大佐の名前を船名にしています。

 航空機修理船がサイパンで撃墜したのは、いずれも「一式陸攻」とされています。
 確かに、サイパンに対しては、硫黄島経由の陸攻・重爆による強行偵察や夜間空襲が行われています。米軍はしばしば重爆と陸攻を誤認しているため、機種までは必ずしも確かではありませんが、撃墜された「一式陸攻」は、必死の思いで飛んできたこれらのいずれかと思われます。

 日本陸軍にも「船舶航空廠」と呼ばれる同種部隊が存在していました。第17・18船舶航空廠の二つが編成されたようです。
 うち、第17船舶航空廠は、航空工作船「彌彦丸(弥彦丸)」(板谷商船,5747総t(後掲渡辺では6900総tとするが同名船との混同か。))を装備して、西はビルマのラングーンから、東はラバウルにまで進出して活動しました。廠長の大久保少佐以下200名ほどが乗船し、航空エンジン2基/日の整備能力を有したと言います。言うまでもないですが、ヘリコプターは搭載していません。
 「弥彦丸」は、1944年1月10日に、輸送船8隻・駆逐艦「刈萱」等からなる第127船団の一員としてフィリピンへ向かう途中、米潜水艦の雷撃で撃沈されています。僚船「飛鳥丸」の救助活動を試みた際に被雷したようです。死者202名。
 また、艦隊随伴用ということで若干性格は異なりますが、英海軍にも航空整備艦「ユニコーンUnicorn」という艦が存在しました。立派な軽空母に近いものです。
 参考:渡辺洋二「液冷戦闘機『飛燕』」(改版,文春文庫,2006年)

回転翼の海鳥たち(第10回)

10.陸軍空母の翼
 日本陸軍が、「空母」を持っていたというのは、わりによく知られている話かと思います。
 ひとつは、「特殊船」と呼ばれた揚陸母艦の一種です。そのうちの丙型という分類のものが、航空機運用能力を持っていました。積んでいるのは上陸作戦支援用の戦闘機等で、空母というよりは強襲揚陸艦に近い船です。
 もう一種類は、戦時計画の簡易護送空母「特TL型」戦標船です。詳しくは次回述べます。
 そして、これらの搭載機として計画された中に、オートジャイロの姿がありました。いわゆるカ号観測機です。

 日本陸軍は、既述の様に米国製のケレットK-3を2機購入していました。しかし、すぐに事故などで失われ、採用にはつながりませんでした。
 ちなみに海軍も、同時期にシエルバC.19を2機購入していますが、こちらも1機を事故で失い、完全に興味を失ったようです。

 オートジャイロにチャンスをくれたのは、陸軍の砲兵隊でした。砲兵隊は、気球に代わる自前の航空観測機材の必要を感じていました。陸軍は、1940年、萱場製作所に試作発注をします。
 新たに購入されたケレットKD-1Aをベースに開発が進められ、1942年、萱場「カ号」観測機として完成します。「カ号」は、ドイツのFi156「シュトルヒ」に似た神戸製鋼「テ号」との競争試作に勝利し、制式採用が決まりました。
 カ号観測機kago_autogyro.pngと、テ号観測機tego_stol.png


 開発から量産過程での試行錯誤は、玉手栄治「陸軍カ号観測機―幻のオートジャイロ開発物語」に詳しい記述があります。
 なお、航空兵の装備で無いため、「キ~」という開発ナンバーがついていません。萱場製作所や神戸製鋼という航空機本体メーカーでない会社が担当するなど、砲兵機材という特殊事情が見えて興味深いと思います。
 また、回転翼の頭文字に由来するらしい「カ号」という名称は、後に、オートジャイロの頭文字からの「オ号」に変更されたとのことです。「カ号」作戦という、まったく無関係の作戦が計画された影響と言います。(ただ、現場では「カ号」と呼称されていたようなので、本稿では「カ号」で通します)

 こうして砲兵機材として制式化されたカ号観測機ですが、戦況の変化から新しい任務を負うことになります。それが、艦載の対潜哨戒機としての任務でした。
 日本陸軍は、独自の海上護衛兵力を整備しようと計画していました。いわば、もうひとつの「海軍」です。
 この奇妙な事態は、海軍は海上護衛に熱心で無いという不満に、ひとつの原因があったと言われます。ただ、当初は海軍に相談せずに計画していた辺り、自由に使える海上兵力を持ちたい、という意識もあったのでしょう。

 計画の中心として、陸軍専用の護送空母が求められました。
 まず、一般輸送船に簡単な改装を施し、カ号観測機を搭載することを考えたようです。具体的には、竣工近い2D型戦標船(貨物船)5隻に小さな飛行甲板(14m×40m)を追加して、4機の「カ号」を搭載する計画でした。2D型の特色である舟艇搭載能力を阻害しないことを目標に、貨物輸送力は半分ほど維持する予定だったといいます。
akitumaru.png とりあえず、発着艦実験が行われることになります。使用されたのは、丙型特殊船「あきつ丸」(左)でした。
 1943年6月4日、瀬戸内海で行われた実験は、なんとか成功します。船尾のデリックポストを装備したままだったため、非常に危険な状況での実験だったようです。かくて日本最初の回転翼の海鳥は、海軍ではなく陸軍の、しかも航空部門ではなく砲兵部門によって実現されたのでした。(第11回へ続く
プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
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Twitter:baron_yamaneko

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