山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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ノモンハン捕虜の運命(第4回)

4.帰還捕虜の処遇について(承前)
(3)将校への自決強要
 ノモンハン事件の捕虜について言われる最悪の不当処遇が、自決の強要です。敵前逃亡罪の最高刑には死刑もありますが、その執行方法は銃殺刑です。すなわち「自決」というのは公式な取り扱いにはありません。

 帰還捕虜全員に自決が強要されたわけではなく、将校のみが対象だったようです。
 ここで注目すべきは、4の(1)で挙げた「今次事変に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」(資料15)です。この文書には軍法会議などによる処理の方針が書かれていたわけですが、特記事項として「但し将校の分限、進退に関する事項は別に措置せらるる儀と承知相成度申添う」(原文カタカナ)となっています。別の措置の内容は明示こそされていませんが、後の経過を見るに、当然に自決による非公式解決を指していたものと思います。秦郁彦も同様の推定をしています(資料22・73頁)。
 すなわち、将校については正規の手続きによらず自決させる方針が、すでに陸軍中央において決定されていたと言えます。

 実例を見ると、第1回交換で帰還した唯一の将校(中尉)は、一旦は敵前逃亡罪で起訴されています(資料17)。名前と階級から推定すると第8国境守備隊から編成された長谷部支隊の中隊長です。事件後の戦訓調査の中心人物となった小沼治夫中佐(当時)による、いわゆる小沼メモにも、「長谷部支隊の最左翼中隊、一中隊二十名となる迄大奮闘せり。中隊長居なくなり戦死として通知せり。然るに捕虜となり帰り来れり。」とあります(資料2・下148頁)。(なお、第1回帰還者中のもう一人の起訴者も第8国境守備隊の兵で、あるいは同時に捕虜となったのかも知れません。そうであれば巻き添え起訴だと考えます。)
 しかし、判決期日と同日の11月16日に「自決」しています。おそらく正式の判決言渡し前のことと思われます。

 第2回交換では少なくとも航空将校2名が帰還しました。既述のように第2回帰還者で日本人は64名、関参一電611号によれば下士官兵は60名なので、ほかに2名の地上部隊将校が帰還したものと考えられます。もっとも、この地上部隊将校について述べた文献には接したことがなく、あるいは軍属という可能性も否定はできません(*1)。
 これら第2回の帰還将校については、3の(3)で述べたように関参一電611号では帰還が報告されていません。つまり、戦死して最初から帰還しなかったとされたのだと思います。例えば原田少佐については、撃墜された7月29日に戦死と認定済だったのが、そのまま公式記録となっています(資料14・下 419頁)。
 実際には生きて帰った将校たちは、第2回の場合もすぐに自決となったわけではなく、戦訓や捕虜生活についての念入りな取り調べを受けたようです。起訴されたのかはっきりしないのですが、戦死者扱いであることからするに、おそらく第1回とは異なって記録に残る正式の起訴手続きは取らなかったものと思われます。特別査問の後に、実弾入りの拳銃と個室を与えられるといった態様だったようです。

 さて、これら自決が、強制的なものであったのかです。
 当時の価値観からすれば、自発的な側面もあったと考えられます。原田少佐は帰還した際には、自決する覚悟だったようです(資料14・下271頁)。捜査完了前に自決することを警戒されて、厳重な監視下に置かれ、用便の際にも憲兵が付いていたといいます。なお、原田少佐に対して「名誉の戦死をとげた」と書かれている出版物を渡して自決を迫ったという話もありますが、これは誤りのようです。ソ連に抑留中に、自分の戦死を賞賛する日本の新聞報道に接したことから、自ら覚悟を決めたというのが真相でした(資料22・上75頁)。
 しかし、明らかに強制があったと見られる例もあります。一人の将校は取り調べに対して、負傷して捕虜になったことは恥じないし、我々を盾として逃げた「○○○の生きている間は我々も死ぬ必要なく生還を恥ずる必要なし」(原文カタカナ)などと答えていたようです(資料19。なお*2参照)。この将校も入院中に「自殺」したとされますが、発言からすると、とうてい納得しての自主的な行為とは思えません。
 将校が捕虜になるという現実が、陸軍の名誉のためにとうてい受け入れがたいものであったため、本人の意思に関わり無く自決処分とされたと評価するのが妥当でしょう。

 ただし、自決以外に、家族と連絡を取らず身分も明かさないことを条件に、変名で満蒙開拓団に参加するという提案も、航空将校2名に対して行われたとする三好中佐(当時。航空兵団参謀)の後の証言があるようです。ブラジル移民として処理する献策をしたという別の将校の証言もあります。しかし、少なくとも原田少佐はこれを拒絶し自決を選んだと、いずれの証言者も述べています(資料22・75~76頁)。
 なんらか、こうした非公式な救済策が検討された可能性はありそうです。温情的といえばそうですが、そもそも捕虜になることが罪ではないのを考えると、やはり妥当な処遇とは言いがたいと私には思えます。

 なんらかの救済の動きはあったにせよ、陸軍刑法と正規手続きでは死刑とならないだろう捕虜将校たちは、結局非公式手続きによって死を選ばされ、「名誉の戦死」を遂げることになったのです。(つづく


注記
*1 本文公開後、満州国軍の日本人将校1名が確認できました。元は日本軍の将校のはずで、あるいはこの人物が不明数のうちの1人かもしれません。

*2 引用文中の○○○の伏字につき、皇族軍人で途中で転属となった東久邇宮盛厚中尉のことではないかとの仮説を立てている研究者もいるようです。
 しかし、私は第23師団長であった「小松原」中将だと思います。ソ連軍の従軍作家シーモノフが、捕虜となった日本軍将校から、「小松原が満州へ飛び去った。反撃準備の表向きだったかもしれないが、じつは単に自分が助かるためだった」旨の言葉を聞いたとしており(資料10・157頁)、これが帰還将校と同一人物と考えるからです。

ノモンハン捕虜の運命(第5回)

4.帰還捕虜の処遇について(承前)
(4)下士官兵のその後
 将校に比べると、下士官兵については、まだ緩やかな処分で済んだようです。
 第1回交換者ではごく一部が起訴されたほかは、全員が部隊長から懲罰処分を受けています(資料17)。おそらく第2回交換についても同様でしょう。下された懲罰処分の内容は様々だったようで、重営倉3日や重謹慎20日などの例があります。懲罰処分はそのまま新站陸軍病院で実施されたようで、特に作業などはなく、軍人勅諭の暗唱をするなどして過ごしたといいます。

 懲罰処分終了後、簡単な精神教育などを受けて、兵役満了まで部隊へ再配属されました。元の部隊へ戻されることはなく、外地の部隊へ分散して配属になったと言います(資料14・276頁)。
 例えば、満州東部国境で建設任務に当たる秘密部隊に配属されたという人がいます。一種の懲罰部隊「教化隊」だったと思われます。正規の陸軍教化隊は姫路にあった1個のみですが、これに類する素行不良者を集めた部隊は関東軍にも設けられていたようです。
 傷病兵については新京陸軍病院に移され、きちんとした治療を受けています。ある傷病兵の場合、内地の相模原陸軍病院へ転院になり、満期除隊まで入院していたといいます。内地での面会は自由だったといいます。元教官の将校が個人的に手回しをしてくれたようで、かなり幸運な部類なのでしょう。
 兵役満了後、少なくとも一部は普通に満期除隊して、日本へ帰還できたようです。例えば前掲の相模原陸軍病院へ移った方は、故郷へ帰って生活しています。ほかにも東京で花屋を開業した例も有るようです。再就職先は軍が世話したといいます。
 再召集を受けて部隊配属された例もありますが、南方の第一線部隊への配置は免れたようです。軍人として信頼できなかったのでしょう。ただ、中には樺太の歩兵部隊に送られて、太平洋戦争末期に再びソ連軍の捕虜となった兵の例もあります(資料22・上84頁)。

 肉親への連絡は広く行われたようで、第23師団から内地の連隊区司令官に対して、帰還者家族への連絡要領について出された命令が残っています(資料18)。戦死扱いになったものは靖国神社に祭られてしまっているから生還が許されなかったという話がありますが、この命令は戦死として処理されてしまっていた17名についてのものなので、事実とは異なる俗説のようです。この命令では、不起訴となったことで捕虜としての汚名は消滅したのだから、家族に資料提供してその旨を十分に説明し、名誉回復に配慮するよう指示されています。特に、重傷で人事不省に陥ったケースなどについては、その功績を賞賛すべきとまで言っているのは、西洋的な捕虜観と通じるものがあり興味深いです。
 家族のほうでは戦死したと思っていたので、生存を知って大騒ぎだったようです。中には行方不明からの認定戦死ではなく、上記17名中7名のように「腹部盲管銃創」などの検死結果までついたり、遺骨が渡されていたケースもありました。戦死誤認の多発は軍内でも問題視されています(資料20)。なお、家長が軍から生存通知を受けたものの、他の家族には明かさなかったというケースもあるようです。
 ここで、ノモンハン事件では公式には捕虜は無かったことになっているという類の話もありますが、実際には捕虜の存在は公式に認められて、「極めて少数かつ重傷患者」(大阪朝日新聞・昭和14年9月20日夕刊)という具合ながら新聞記事でも捕虜交換が報道されています。第2回捕虜交換交渉が難航していることも報じられていました(大阪毎日新聞・昭和14年10月22日夕刊)。ただし、帰還者個人が捕虜であったことを明かすことは禁じられており、警察官が毎日様子を確認に来ていたという方もいます(資料14・276頁)。

 資料15の捕虜の処遇方針では、本人の希望があれば外地定住を斡旋するという一項がありました。実際にこの道を選んだ例も有るようです。第2回捕虜交換で帰国した航空隊下士官の1人は、有罪判決を受けて1942年末まで関東軍刑務所で服役後、満州国軍へと入隊して活躍したといいます(資料12・345 頁。なお*1)。ほかに満州国警察の警官に採用された例(資料22・上79頁)、満蒙開拓団に入った例もあります。
 「本人の希望」を口実に軍が事実隠蔽のために用意したとも見えますが、建前どおり本人を守るという配慮も大きいのだと思います。当時の市民感情からすると、捕虜一家は村八分となるおそれも強かったでしょう。前掲の相模原陸軍病院に入院した方の場合も、当初は偽名を使って満州に残ることを希望していたのが、元教官に説得されて故郷に帰ることになったと言います。

(5)小括
 苦戦の末にやむなく捕虜となって生還したものに対して、日本軍の処遇は酷で理不尽なものでした。特に将校に対しては、自決強制の方針が陸軍省から指示され、本人の意向に構わず自決が迫られました。下士官兵については、一部は敵前逃亡罪として起訴投獄され、多くの者は懲罰処分の後に再配置されました。拡大解釈による公式処罰と、もろもろの非公式な不利益取り扱いが行われたのです。
 満期後も故郷に帰らず満州国軍に転身した者もあり、これは軍の処遇方針にも予定された措置でした。世情を考えれば本人のためでもあるにしろ、幸福な運命ではないでしょう。
 もっとも、手厚い看護を受けたうえ満期除隊して帰郷できた者もあり、人事不省の末に捕虜となった者を賞賛するなど、軍が一定の配慮を示した面も見られました。(つづく

注記
*1 満軍入隊した人数について。引用の資料12には2名とあるが、第2回送還者のうち1名は自決を図り後遺症を負っているため従軍できる状態にはなく、1名の誤りと思われる(資料22・上80頁)。

ノモンハン捕虜の運命(第6回)

5.未帰還捕虜について
(1)NHK資料に拠る未帰還者数推定

 残る大きな謎は、捕虜交換で帰国せず、そのままソ連に残留した捕虜の存在です。従来、これも相当数に上ると推定され、例えば秦は400~500名と見るとバランスが取れると述べていました(資料8・214頁)。キリチェンコも400名と推定しているようです(注記1)。
 しかし、NHK資料に拠る捕虜総数から推定するに、満軍の集団投降者を除けば未帰還者の数もかなり少数だと考えます。純然たる捕虜総数227名から捕虜交換での帰還者191名を減じ、さらにNHK資料によると拘束中に少なくとも6名が死亡しているので、これを除いた生存未帰還者は30名になります(注記 2)。死亡者6名を全て日本兵とすると、未帰還のうち日本兵は最大で26名(満軍は4名)です。
 ジューコフ電文の内訳を用いれば、日本人はわずか3名、それ以外が26名、不明1名となります。

 NHK資料のうち特に未帰還者に関連しそうな部分として、(A)95人分の捕虜名簿中6人に付された「残す」という書き込み、(B)帰国拒否者6名という書き込み、(C)「(残った)あるいは(残された)」という22名という書き込みの3つがあります。

 まず(A)について、「返すべき人数は89人」という書き込みとあわせると、6名は帰国できなかったとも思えます。
 しかし、「残す」とされた捕虜のうち少なくとも2名は、日本側資料で無事に生還したことが確認できます(資料18)。おそらく外交交渉中の中間的な選別として不返還が検討されただけで、最終的には異なった処理がされているものと考えます。したがって(A)は無視します。

 次に(B)について、別に残された尋問記録に照らすと、この帰国拒否者6名は日本軍・満軍が3名ずつであったようです(資料1・222頁)。これらが未帰還であるのは確実と考えます。
 興味深いことに、帰還者の一人が日本軍による調査の中で、「タムスクに於て映画観覧中三名の日本兵は自分等は最早日本には返らぬと言ひ居たるが其後捕虜一行が『チタ』に移されし際一行中に加はり居らざりし」(資料26。原文カタカナ・旧字体)という報告をしています。この報告を受けて日本軍は「我が捕虜中三名の日本兵は『ソ』側共産党に加入せるものの如く不返還となれり。」と判断しています。
 帰還者報告の3名という数字は、ちょうどNHK資料の帰還拒否者数と一致します。また、報告に付された判断は、把握している未帰還者の総数は3名だけであるように読めます。もっとも、将校閲覧用の資料として一定の公開を前提に作成された文書で、文中の捕虜の人数は墨塗りになっている程度のもののため、未帰還者数の総数を正直に記載していない可能性も有ります。
 さらに、この3名という数値は、ジューコフ電文を基にした未帰還日本兵数の推定とも一致します。
 これら3つの数値の一致からすると、未帰還日本兵は3名だけであるという仮説が成り立ちます。

 ただ、未帰還日本兵は3名だけであるとの仮説は、まだ検証が不十分であると考えます。前提となるジューコフ電文の捕虜内訳について、1の(3)で既述のように日系軍官や朝鮮特別志願兵の問題があります。後述するシベリア抑留者などとの遭遇事例の発生件数と比しても、さすがに少なすぎるように思います。(つづく


注記
1.捕虜総数597名以上とする前出のキリチェンコ推定によると、うち400名が残留したとするようです(資料27・上202頁)。主にカザフスタンのコルホーズに送られ、1991年当時も100名余りが生存していたとします。これを受けて保阪は、執筆時(1999年頃)には生存者10名足らずになっているのではないかと述べています。
 現存者数にまで触れた点では信憑性があるとも思えますが、前述のように根拠史料が不明のため、評価を保留します。

2.ワルターノフによると、6月下旬から7月初旬に森本大尉以下6名の航空兵が捕虜になった後に自決しているといいます(資料8・155頁)。6名の死者というのはこの方々だと考えられます。
 なお、うち森本大尉に関しては、6月末に他の捕虜が身元確認をしたと証言しており、目立った外傷が無いことから自決ではないかと述べています(資料 22・上96頁)。謀略宣伝の協力者になって停戦直後に自決したという説もあるようですが、日露双方の情報の一致からすると6月末に自決したとみるのが妥当と思います。

ノモンハン捕虜の運命(第7回)

5.未帰還捕虜について
(1)NHK資料に拠る未帰還者数推定(承前)
 現時点での私見としては、未帰還捕虜総数は30名、うち日本兵は3名よりも多いと考えます。
 3名よりも多いと考える積極的根拠は、帰還できた捕虜とは別行動した一群の捕虜の存在です。これがNHK資料の前掲(C)記述の「残った」22名にあたり、その中に日本兵が含まれていると考えています。

 帰還捕虜の証言(資料26)及び秦の研究(資料22・上68~69頁)によると、捕虜は(ア)タムスク=ウランバートル=ウランウデ=モスクワ=チタという経路をたどった初期グループ(モスクワ組)と、(イ)タムスク=ウランバートル=チタという経路をたどった中期以降のグループ(直行組)に大別されます(注1)。NHK資料とジューコフ電文にも、モスクワ移送者として10名が挙げられています。重要な点として、これらの捕虜の移動手段はトラックか鉄道での地上輸送に限られています。
 ところが、シーモノフは、チタへ空輸された「約30名」の捕虜の存在を記録しています(資料10・183頁)。第1回捕虜交換の数日後に戦場から帰還する際に、シーモノフはTB-3輸送機でこれらの捕虜と乗り合わせました。満軍兵と帰還拒否した日本兵であったといいます。
 移動手段の違いからみて、第3のグループとして(ウ)チタ空輸組が存在しています。そして、NHK資料の前掲(C)の「残った」22名が、このチタ空輸組「約30名」に相当すると考えます。

 もっとも、空輸組「約30名」というのが、NHK資料に明示された帰還拒否者6名も含んでいる可能性もあります。「残った」22名+「帰還拒否」6 名=28名で、約30名です。帰還拒否日本兵3名が他の捕虜と会話したタムスクにはソ連軍の飛行場があります。この会話後にチタへ空輸されていたとすれば、チタへの移送時には他の捕虜に同行しなかったということと矛盾しません。
 そうであれば「残った」22名全員が満軍兵ということもありえます。残留日本兵が3名より多い根拠とは言えなくなります。

(2)シベリア抑留者等の証言との整合性
 残留捕虜については、シベリア抑留者などによる多くの接触情報が残されています。早い時期では戦時中の1944年に、ノモンハン付近で作業中の捕虜と会話したというものもあります(資料14・下277頁)。シベリア抑留者に対しては、引き揚げ後に国会で参考人質疑が行われており、そこでもノモンハン事件の残留者に関する証言が為されています。
 これらの接触情報には残留者の数を1千名以上とするものもあり、総数30名という私見とは不整合と見えます。そこで、この「不整合」が解消できないか検討してみます。

 第一に、証言者が直接に残留捕虜と接触して、かつノモンハン事件関係者であると確認した事例というのは、それほど多くはありません。そして、そのような信頼性の高い事例では、残留捕虜から聞き取った残留者数もたいていは数人から20人程度とされています。2000人といった数字は不確実な収容所内の噂が多いようです。

 第ニに、捕虜総数の場合と同じく、満州国軍の集団脱走者が誤認されている可能性があるように思われます。集団脱走者約250名は、一部は日本側へ再脱走したようですが、かなりがソ連領内に残っているはずです。
 シベリア抑留者の証言の中には、自身が直接に面会したというのではなく、地元のモンゴル人やロシア人からの伝聞が含まれています。こうした外国人を通じての伝聞の場合、国籍の区別が不正確で、集団脱走者と通常捕虜の混同を生じている可能性があります。

 第三に、ノモンハン事件とは無関係にソ連に帰化した日本人が、誤認されているケースがあるのではないかと考えます。
 ノモンハン事件以外にも、日本人が国境侵犯者として拘束された事例は数多く発生しています。一部では捕虜交換が行われた例もありますが、張鼓峰事件の捕虜など相当数がソ連領内に残されたようです(注2)。
 実際、ノモンハン事件の捕虜でも、捕虜収容所で拘束中の大陸浪人などと遭遇した例があります。中にはソ連軍将校となっている日本人もいて、シベリア出兵期の残留孤児だったといいます。
 現に誤認が確認できる例として、1950年4月29日に参院特別委員会でされた與儀宅正証言が挙げられます。この証言は、ロシア人からの伝聞として、チタ地区にノモンハンの捕虜が居るとしています。しかし、「ハツサンのワイナー」と述べていることから、実はノモンハン事件ではなく鼓張峰事件(ソ連側呼称「ハサン湖紛争」)の捕虜です。
 前掲の1944年のノモンハン付近での接触事例も、「捕虜」は「あのとき限り、日本人の俺は死んだんだ」と言って会話を拒否しているだけで、ノモンハン事件関係者だとの確認はできていません。誤認の可能性は十分にあると考えます。
 ノモンハン事件で日本軍が大損害を受け捕虜も生じたことは、新聞報道などで広く知られていました。そうした前提でソ連領内で日本人を発見した場合、多くの人たちは、ノモンハン事件の残留捕虜だろうと思い込んでしまったことでしょう。ですが実際は、その多くはノモンハン事件と無関係だったのではないでしょうか。

 第四に、特殊なケースですが、捕虜交換での帰還者が再度捕虜となった事例の誤解があります。
 1989年のテレビ西日本の取材により、唯一確実な残留捕虜とされる人物が発見され、「あゝ鶴よ―ノモンハン50年目の証言」という番組で放送されたことがあります(資料22・上81頁)。しかし、後の調査で、ノモンハン事件で捕虜となったものの交換で帰還していたが判明しています。帰還後の再召集で樺太の歩兵第125連隊へ配属され、太平洋戦争末期に再度捕虜となり、シベリア抑留の末にソ連へ帰化したようです。
 既述のように満州へ移住した元捕虜は何人もいたので、同様に再度捕虜となっての誤解が生じた可能性は有ります。

 このようにして接触情報を検討していくと、総数30人仮説と、後のシベリア抑留者などの証言の不整合は決定的ではないと考えます。(つづく

注記
1.直行組の一部はウランバートルまで送られた後、タムスクに一度戻されて他の捕虜と合流、再度ウランバートル経由でチタへ移送されたようです。ただ、大別すると直行組と言えます。

2.張鼓峰事件で捕虜となった方で、シベリア抑留者とともに帰国できた例が1人確認されています。その方によると、張鼓峰事件関係では、紛争の発端となった「戦死者」の憲兵伍長も捕虜になっていたそうです(資料27・上182頁)。

ノモンハン捕虜の運命(第8回)

(3)未帰還者の生活
 ソ連領に残った捕虜たちの生活はどのようなものであったのでしょうか。
 シベリア抑留者が接触して聞いた情報によると、1946年頃にはソ連に帰化して民間人として生活している例があったようです。ハバロフスク郊外のアムルスカヤ工場で運転手をしていた「イワーノフ」を名乗る者や、コムソモリスクの製パン所で工場長代理を務めている青森出身を自称する者、カラカンダの炭鉱労働者などの例が報告されています(資料22・上278頁、参院在外同胞引揚問題に関する特別委員会・昭和24年12月23日・佐藤三郎発言)。現地で結婚している例もあったといいます。帰化しているといっても、選挙権などは制限されることがあったようです。多民族国家ゆえか差別は少なく、生活はそれなりに豊かな者が多かったようで、シベリア抑留者に食糧援助をしたという話があります。
 ただ、もっと過酷な待遇を受けた捕虜もいた可能性があります。張鼓峰事件で捕虜になった方は、スパイ容疑で1947年まで投獄され、その後もソフホーズで不自由な生活をしたと証言しています(資料27・上)。田中克彦が、ブリヤート共和国に在住するノモンハン捕虜の娘だと称する人物から聴取した話でも、凍死寸前で過酷な森林作業に従事させられていたといいます(朝日新聞1999年9月30日夕刊)。

 中にはソ連軍に従軍した者もいたようです。朝鮮人捕虜でソ連軍に徴兵された後、今度は東部戦線でドイツ軍捕虜となり、最後にはノルマンディで米軍の捕虜になったという例があります(資料28。注1)。この4人の朝鮮人は1938年に日本軍に徴兵されたと報じられていますが、当時は朝鮮半島出身者は徴兵対象ではなく、朝鮮特別志願兵か軍属、あるいは満州国軍兵のいずれかであったと思われます。なお、この朝鮮人兵士の写真と称するものがありますが、元のキャプションでは“young Jap”と書かれているあたり、関連性には少々疑問があります。
 日本人捕虜でも、飛行第11戦隊の天野逸平中尉が東部戦線で活躍したという風聞や、満州侵攻軍に戦車兵として参加していたという目撃談があるそうです(資料22・83~84頁。なお注2)。
 スパイとして満州国などへ送り込まれた者もあったのではないかと想像します。少なくとも満州国軍の集団脱走者では、そうした事例があったようです。

(4)日本への帰国
 残留捕虜は故郷に帰ることはなかったのでしょうか。秦は「シベリア抑留捕虜が大量帰国した時期に、合流して帰る機会があったと思われるのに」、誰一人として帰国しなかったのは理解に苦しむと述べます(資料22・83頁。なお注3)。
 実は、秦の指摘するシベリア抑留者と同時の帰国をした例があると、私は考えています。1949年の参院特別委員会で、淺岡信夫議員が、「ノモンハン事件捕虜で千葉県出身の若松武というのが、1949年8月31日に一般引揚者と共に舞鶴に上陸した例もある」旨を述べているのです(参院在外同胞引揚問題に関する特別委員会・昭和24年12月23日)。この「若松武」という名は、ソ連側が記録した帰国拒否者の一人「ワカマツ・タケシ」と一致しています(資料1)。ソ連側尋問記録では出身地が東京となっているのが異なりますが、氏名の一致が偶然とは考えにくく同一人物と思われます。替玉をスパイとして潜入させたなどの可能性もありますが、入管審査の緩い戦後の混乱期に、わざわざノモンハン捕虜の身分を利用して注目される危険を冒しはしないと思われ、本人と見てよいでしょう。
 もうひとつ、1947年末にコムソモリスクの一般人収容所にノモンハン事件捕虜が入所したとの情報もあります(前掲の與儀宅正証言)。伝聞ですが、事実であれば帰国に成功しているのではないかと思われます。あるいは若松氏のことという可能性もあります。
 ただ、故郷に帰ることの無いまま、異郷の地に眠る人があるのも事実でしょう。捕虜として帰れば家族に迷惑がかかることをおそれて、帰国をあきらめたのでしょうか。それでも幸せな第二の人生を見出せたのならば、まだ良いのですが。(つづく


注記
1.このエピソードが韓国で映画化されるとの報道がされています(Wow!Korea2008年5月21日)。チャン・ドンゴンと木村拓哉が出演予定だと報じています。続報が無くガセネタの可能性が高いですが。
 ガセネタと思っていたら、本当に制作されていました。木村拓哉ではなくオダギリジョーが出演となったようです。日本公開は2012年新春とのこと。映画「マイウェイ」公式サイト(2011年7月5日追記)

2.秦によると、ドイツの公文書にソ連軍から脱走してきた日本人がいたと記録されているといいます。秦はノモンハン事件の捕虜である可能性を指摘します。
 異なる人物と思われますが、東部戦線でドイツ軍捕虜となった日本人は、日本側資料にも記録があります(資料29)。こちらは大正時代にシベリアへ移住した日本人で、ソ連政府によって両親を投獄された後、本人も逮捕されキエフの刑務所にいたところをドイツ軍に解放されたといいます。幼少期に渡航したため、日本語が話せなかったようです。在ケーニヒスベルク日本領事館(現カリーニングラード)に引き取られたとありますが、ドイツ敗北後の運命は不明です。

3.前述の張鼓峰事件の捕虜では、シベリア抑留者の最終便とともに帰国した例が確認されています。この方の数奇な運命に関わった方のブログ「走るナースのおとぎ話」が公開されています。
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山猫男爵

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ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
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Twitter:baron_yamaneko

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