FC2ブログ

山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その2)

3.独立中隊の挽歌(承前)

 1944年12月、レイテ島の戦いにおける日本軍の敗北が明らかとなり、ルソン島の第14方面軍は島内を「尚武」「振武」「建武」の3集団で分担する三大拠点構想に基づく防衛体制へ移行します。
 岩下戦車中隊(旧独立戦車第8中隊)は建武集団へ区処されました。建武集団はマニラ北西・ピナツボ山東一帯に広がるクラーク飛行場地区の守備隊です。総兵力は約3万人ありましたが、その半数以上は海軍兵、陸軍兵もほとんどが航空隊の地上組織であったため極めて弱体でした。まともな陸戦能力を有するのは、建武集団長を務める塚田理喜智中将(第1挺進集団長=空挺師団長兼務)の旗本というべき滑空歩兵第2連隊(グライダー空挺部隊)の750人と、北上した戦車第2師団の置き土産である機動歩兵第2連隊主力の1700人程度で、あとは基地警備用の飛行場大隊が第一線を張らねばならない状況。その中で、岩下戦車中隊は、仮編独立自走砲中隊(長:鷲見文男中尉)の四式15cm自走砲2門とともに貴重な機甲戦力といえます(注1)。

kenbu_group.png 1945年1月7日にアメリカ軍はルソン島リンガエン湾に上陸。対する建武集団は、リンガエン湾からマニラへ向かって南下してくるアメリカ軍を側撃する構えで、ピナツボ山を背に南北に連なる防衛陣を築きます。塚田集団長の命じた配備では、左翼に機動歩兵第2連隊主力を基幹とする高山地区隊(機動歩兵大隊1個・飛行場大隊2個ほか)、中央にはストッチェンバーグ飛行場を抑えた江口地区隊(飛行場大隊5個・仮編独立自走砲中隊ほか)、右翼へ少し離れたアンヘレス(Angeles)飛行場には江口隊を側面援護するため柳本地区隊(機動歩兵大隊1個・岩下戦車中隊)が並び、滑空歩兵と海軍陸戦隊700人を予備として控置、残余は後方の複郭陣地となっていました(注2)。
 アメリカ陸軍は第14軍団(第37・第40歩兵師団基幹)をクラーク地区へ侵攻させます。2個の米軍師団は各1個の戦車大隊と戦車駆逐大隊に支援されていました。1月20日、北方のタルラックに出ていた高山地区隊の警戒部隊2個中隊は、飛行場を破壊して主力に合流。1月23日に高山地区隊の最左翼で交戦が始まります。
 柳本地区隊はアンヘレス北東10kmのマガラン(Magalang)方面に出撃して、1月24日に米軍左翼の第37歩兵師団を攻撃しつつアンヘレスへ帰還。第37歩兵師団の支援を担当していた第637戦車駆逐大隊(注3)の記録によると、24日16時ころにサン・ロケ(San Roque)西方で第37歩兵師団の偵察隊が日本戦車2両に襲われて被害を受けており、おそらく岩下戦車中隊の戦果と思われます。同大隊ではM18戦車駆逐車1個小隊を救援に出動させたものの、このときは空振りに終わって、遺棄されたジープ3両と負傷者を収容して引き揚げています(注4)。
 彼我の戦力差は著しく、日本軍は次々と拠点を失います。1月27日にアンヘレス北方のダウもアメリカ軍が占領。柳本地区隊はダウのアメリカ軍砲兵を一撃したうえ、アンヘレスを放棄して江口地区隊へ合流しました。岩下戦車中隊もダウでの戦闘に参加しており、アメリカ軍第37歩兵師団の第145歩兵連隊と交戦したようです。
 なお、同じ1月27日には鷲見独立自走砲中隊もアメリカ軍戦車隊と初めて対戦し、300m以内の至近距離からの砲撃と陣地転換を繰り返す戦術で戦っています。すぐに反撃を受けるため、1箇所では2発までしか砲撃できなかったそうです(注5)。鷲見隊長以下負傷者が生じました。

 ダウとアンヘレスを占領したアメリカ軍第37歩兵師団は、ストッチェンバーグ基地に向かった正面攻撃を開始します。1月29日、第37歩兵師団のクラーク第4滑走路(マルコット飛行場)侵入を受けて、江口地区隊長は岩下戦車中隊による反撃と鷲見自走砲中隊による援護射撃を命じました。
 夕刻、岩下戦車中隊は8両の戦車全力を岩下大尉が率いて出撃します。鷲見自走砲中隊は1.5kmほどの比較的近い距離にいて援護射撃を試みたものの、無線連絡が通じず、爆煙で視界も悪いため、十分な支援は困難でした。
 1月29日16時45分ころ、岩下中隊は、マルコット飛行場に展開したアメリカ軍第37師団第129歩兵連隊の第3大隊へ突入します。第37歩兵師団の支援には、第754戦車大隊のM4中戦車と第637戦車駆逐大隊(注3)のM18戦車駆逐車が配属されていました。しかし、このとき日本側にとって幸運なことに第754戦車大隊は補給のため後方に下がって不在でした。代わりに居合わせたM7/105mm自走砲1門が立ち向かったものの、岩下中隊の47mm戦車砲弾によりたちまち乗員の大半もろとも葬られてしまいます。
 17時ころ、通報を受けて、第3大隊へ配属中の第637戦車駆逐大隊A中隊第1小隊のM18戦車駆逐車4両が急行します。ここでもアメリカ側にとって不運なことに同小隊長は敵陣偵察へ出かけて不在で、先任軍曹が指揮を執っていました。駆逐戦車隊と岩下戦車中隊は、互いに相手を左に見た位置関係で出くわし、行軍縦列のまま散開する間もなく激しい戦闘に突入したようです。夕闇と爆煙で視界が効かず、至近距離に近づくまで気づかなかったのではないでしょうか。おそらく一瞬の交戦で、日本側の九七式中戦車は4両が並んだまま撃ち抜かれ炎上(下画像)、アメリカ側はM18戦車駆逐車1両が完全破壊されました。M18戦車駆逐車は強力な76.2mm砲を載せた車両ですが、最大装甲25mmと薄かったため、日本戦車にとってはM4中戦車よりも与し易い相手だったものと思われます。その割に1両しか撃破できなかったのは、装甲の厚いM4中戦車と判断して1両を集中射撃したためかもしれません。
clarkfield1945.jpg

 鷲見自走砲中隊の援護射撃を受けて、岩下中隊の生き残りは撤退しました。生還した九七式中戦車は3両で、M18に撃破された4両以外の1両の喪失原因が不明です。陣地にたどり着いた兵は35人だけで、岩下大尉も戻りませんでした。
 アメリカ側は上記の1両完全喪失に加えて、別に1両のM18戦車駆逐車がMortar(臼砲・迫撃砲)の砲火によって損傷したと記録しており、鷲見自走砲中隊の戦果だろうと推定します。M18の乗員は5人戦死・6人負傷。日本側ではM4中戦車7両以上擱座と戦果報告したようですが、外形の似たM18戦車駆逐車の誤認や、視界不良による友軍戦車残骸の誤認が混じっているものと思われます。
 なお、補給を終えたM4中戦車3両が戻ってきたのは、日本戦車が去った後でした。第129歩兵連隊の第3大隊長は、M4中戦車が砲撃を避けて隠れていたと不満を言っています。もしこれが真相であれば、鷲見自走砲中隊の支援砲火が見事に効果を発揮していたといえるのではないかとも思えます。

 こうして1月29日の反撃も功を奏さず、翌日にストッチェンバーグ飛行場は陥落。以後は、複郭陣地へ後退しての持久戦闘へ徐々に移行します。建武集団を押し込めたアメリカ軍第14軍団は、掃討戦を後続部隊に委ねてマニラへと進撃を続けました。
 岩下戦車中隊のその後の戦闘の詳細はわかりませんが、鷲見自走砲中隊が車両を失って山中へ入ったのと同様に、車両を撃破されるか破壊処理した後に複郭陣地へ後退したものと思われます。岩下戦車中隊の総兵力129人のうち、終戦まで生き残ったのは16人だけでした。(その3へ続く

注記
1 仮編独立自走砲中隊は、もとは第1自走砲中隊と称した部隊で、ルソン島への揚陸中の空襲により損害を受けたため残存装備・人員を仮に再編成したもの。敷波迪「日本軍機甲部隊の編成・装備」1巻によると1944年12月8日の発令では四式15cm自走砲4門と装甲兵車8両を装備するはずだったが、調達が間に合わなかったためか実際の配備数は3門のようで、しかもうち1門は輸送船「青葉山丸」とともに海没した。このほかの建武集団の機甲戦力として、機動歩兵第2連隊は軽装甲車や装甲兵車若干を保有していた可能性がありそうだが詳細不明。

2 各地区隊の呼称は指揮官苗字で、高山地区隊:高山好信中佐(機動歩兵第2連隊長)、江口地区隊:江口清助中佐(第10航空地区司令官)、柳本地区隊:柳本貴教少佐(機動歩兵第2連隊第3大隊長)。

3 第637戦車駆逐大隊は、フィリピン反攻作戦のためフィジー駐屯部隊から転出してきた部隊。編制は本部中隊・偵察中隊・A~C中隊(一般中隊)・衛生班から成る。主力装備は動員に際してM18戦車駆逐車36両へ更新され、偵察中隊にはM5A1軽戦車とM8装輪装甲車が配備されていた。

4 1月24日以前の1月21日夜にも、タルラック東方のラ・パス(La Paz)で戦車1両に支援された日本軍1個小隊が出現し、アメリカ軍の第148歩兵連隊を襲って橋を破壊して去った戦闘がアメリカ陸軍公刊戦史に記録されている(Smith, p.169)。これは次回述べるように独立戦車第8中隊(旧第9中隊)の可能性が高い。

5 佐山「機甲入門」・291-292頁。

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その1)

3.独立中隊の挽歌

 ま幸くと 言ひてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも
                        ―大伴家持、「万葉集」より―

 日本陸軍の戦車部隊の編制には、独立戦車中隊と呼ばれる形式がありました。太平洋戦争中には、大規模な戦車部隊の配置に適さない島嶼の守備隊などのため、独立戦車第1中隊から独立戦車第14中隊まで欠番無しの14個中隊が誕生しています(注1)。
TKcsMap.png
 そのうちの独立戦車第7から第12中隊まで送り込まれた先がフィリピン戦線です。これらの6個中隊は、日本陸軍が目指すフィリピン決戦のため、守備隊と飛行場建設用重機を兼ねて1944年6月に新設されました。人員は指揮班・小隊3個・段列の計100人余り。部隊番号が偶数の中隊では新鋭の排土板(ドーザー)付き九七式中戦車(47mm)、奇数の中隊は旧式の八九式中戦車(甲)に整地用牽引ローラーを持たせたものを、それぞれ11両装備していたようです(注2)。独立戦車第9中隊の例では乗用車1両・自動貨車4両・軽修理車2両の支援車両も持ち、他の中隊もおおむね同内容と推定します。当初の指揮官は第7中隊:河野勲大尉、第8中隊:岩下市平大尉、第9中隊:土屋光治中尉、第10中隊:後藤数馬大尉、第11中隊:助川正夫大尉、第12中隊:門田良和大尉が着任しました。

 日本本土の戦車隊を母隊として編成された6個の独立戦車中隊は、海路フィリピンへ出発します。部隊番号順に威358部隊から威363部隊までの通称号(「威」は南方軍の兵団文字符)が割り振られました。しかし、1944年にはバシー海峡を始めフィリピン周辺はアメリカ潜水艦の待ち構える危険水域となっており、誕生まもない戦車隊の前途は多難でした。
 最初の便と思われるのは7月3日に門司発のモマ01船団で、陸軍特殊船「摩耶山丸」に乗った第9・第12中隊の各人員主力が無事にルソン島へ上陸。しかし、続いて7月6日に門司を出たモマ02船団(高雄から別名でタマ21C船団)は戦車第2師団の一部も同乗する重要船団でしたが、独立戦車第8中隊先遣小隊が乗った「仁山丸」、独立戦車第10中隊主力の乗った「祥山丸」、独立戦車第12中隊の車両が積まれた「日山丸」を含む6隻が撃沈される大打撃を受けます。第8中隊は9人、第10中隊は中隊長を含む43人、第12中隊は4人が戦死しました。海没した隊の装備車両は当然全損です。

 ルソン島に上陸した独立戦車中隊は大きく再編成される羽目になりました(注3)。独立戦車第7中隊はそのままレイテ島へ派遣。1個小隊を失って残存戦車8両に減った独立戦車第8中隊は、第12中隊の人員の一部をもらい岩下中隊または岩下独立戦車隊と改称。代わりに独立戦車第9中隊が第8中隊へ繰り上げになります。独立戦車第10中隊は解隊されて、残存人員は新第8中隊(旧第9中隊)と戦車第2師団へ吸収。独立戦車第11中隊は第9中隊へ繰り上げ。独立戦車第12中隊も解隊されて、人員は岩下中隊と新第9中隊、戦車第2師団へ吸収されました。以下、新しい部隊番号で呼称します。
 その後、独立戦車第8中隊長の土屋中尉は戦病により後送され、同中隊第1小隊長だった松元三郎中尉が昇格。独立戦車第9中隊長の助川大尉も少佐に昇進して病身のせいもあってか第103師団へ転任となり、指揮班長の中島保男中尉が交替しています。戦史叢書の「捷号陸軍作戦<2>ルソン決戦」の付表で独立戦車中隊が3個しか編制表に載っておらず、しかも表に2か所空欄があること、中隊長も前記の初期メンバーと異なっていることは、この最終状態を記載したのが理由と思われます。
 レイテ島へ派遣された独立戦車第7中隊は第16師団に配属(詳細は第3部第1章参照)。ルソン島の岩下中隊はマニラ北方のカロカン、サブランへ駐屯。独立戦車第8中隊はセレベス島への派遣計画もあったようですが中止となり、ルソン島南部の第105師団へ配属。独立戦車第9中隊は、戦車第2師団の各隊から集成した津守独立戦車中隊(軽戦車15両)とともに、北部の第103師団へ配属されました。それぞれ所在地の飛行場の土木作業や対ゲリラ警備に従事しつつ、アメリカ軍の上陸を迎え撃つこととなります。(その2へ続く


注記
1 独立戦車第1中隊はガダルカナル島増援、第2・第5・第6中隊は千島列島守備、第3・第4中隊はパラオへ進出途上のサイパン島で玉砕(第2部第3章参照)、第13・第14中隊は終戦近くに日本本土方面で新設(第5部第2章予定)。

2 装備戦車は九七式中戦車ではなく一式中戦車とする資料もあり。独立戦車第7中隊については九五式軽戦車とする資料もあるが、展開先のレイテ島で撮影された写真のある八九式中戦車だった可能性が高いと考える。

3 改編経緯は元独立戦車第8中隊(旧第9中隊)の下士官であった細田正一氏の史料に依拠している。

鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第3章・後編)

3.先遣隊の槍は砕けて(承前)

 吉田先遣隊は、バセイン北東のヘンダサを出発して北東に進み、ラングーン=プローム街道に出て一旦は南下した後、ラングーン=マンダレー街道をとって再北上しました。先遣隊の先頭部隊は、4月1日にトングーへ到達し、10日頃まで反乱を起こしたビルマ国軍を掃討するなどの治安戦闘を行っています。
burma_map2.png 諸兵科連合部隊が行軍する場合、装甲戦力は部隊の先鋒として先頭に立つことになりそうですが、吉田先遣隊の装甲戦力である騎兵第55連隊第3中隊の場合は違いました。同中隊は、先遣隊の他の部隊よりも大きく後れ、4月10日頃にようやくラングーンとトングーの間のニャウンレビンNyaunglebinに到達したところだったようです。おそらく装備車両の状態が悪く、連続走行が難しかったのだろうと思われます。なお、中隊員の回想によると、同中隊のうち1個小隊は吉田先遣隊に加わらず騎兵連隊主力と行動を共にしていたそうですが(注1)、騎兵連隊主力を基幹とする神威部隊についての資料では確認することができていません。
 騎兵第55連隊第3中隊はニャウンレビンに数日滞在して、車両の整備と、治安警備を実行しています。反乱ビルマ国軍の司令官であるアウンサン将軍が付近を逃亡中との情報があり、街道上に戦車を出して検問を敷いたりしていました。

 4月9日、イギリス軍は、日本の第33軍部隊が防衛中のピヨベPyawbwe(メイクテーラとピンマナPyinmanaの間)を迂回して、ピヨベとピンマナの間でラングーン街道を遮断してしまいました。この緊急事態を知った吉田先遣隊は、翌10日夜、トングーを発してピンマナ防衛へと向かいます。そして、12日、ピンマナ北方のシンテ川(シッタン川支流の一)に展開しました。
 4月14日、戦車隊を先頭にしたイギリス軍第5インド師団が、シンテ川防衛線に襲いかかります。守備するのは、吉田先遣隊主力のほか、ピヨベから後退してきた第33軍の残党ですが、名目上は第18・第49・第53師団の3個師団を誇っても、実力は合計で5000人以下でした。吉田先遣隊も、装備火砲の一部は戦車隊と同じく落伍してしまっていたようです。頼みのシンテ川も乾季のため水量が少なく、地形障害になりませんでした。日本軍はたちまち劣勢になります。

 先遣隊主力の苦戦を知ったのか、騎兵第55連隊第3中隊長の矢沢大尉は、4月16日、出撃可能な軽戦車2両「あかつき」「あけぼの」と段列のトラック1両、人員20人弱だけを直率して、ニャウンレビンを出発しました。その他の装甲車両は整備未了のため、2個小隊を後藤中尉に指揮させて残置しています。とりあえず出撃した2両も万全の状態ではなく、「あけぼの」はすぐに不具合が発生して引き返し、後藤中尉の乗車の部品をもらっての共食い整備で隊列に復帰するような有様でした。
 4月17日にトングーに到着した矢沢隊は、夜間走行での前進に切替え、18日夜にピンマナ南方8kmの地点に到達しています。この間、もう1両整備が完了した軽戦車「龍」を西少尉が指揮してニャウンレビンから後を追い、18日にトングーに着いています。

 4月19日未明、ピンマナ南方8kmの小部落で待機中の矢沢中隊長らに、西少尉の「龍」が合流。
騎兵第55連隊対第116機甲連隊_ピンマナ1945年4月19日 朝食を食べたり、ビルマ人の老婦人が売りに来た餅を買い食いしたりしつつ警戒していると、午前10時半ころ、街道をピンマナ方向から友軍の歩兵やトラックの一団があわてた様子で敗走してきました。呼びとめて事情を聴くと、イギリス軍の機甲部隊が北西方向からすぐそこまで南下してきていると言います。矢沢中隊長は、ただちに迎撃態勢を敷くよう命じました。中隊は、街道東側の車道より一段低い牛車道に、「あかつき」(中隊長車)・「あけぼの」・「龍」の順に95式軽戦車を潜ませ、車道を盾に砲塔射撃の構えをとります。敵戦車に対して絶望的な性能差であることは認識した中での、精一杯の策でした。段列のトラックはやや後方に離れて潜み、数名の段列要員は騎兵銃を手にとってささやかな随伴歩兵となっています。なお、段列員らは、戦闘を予期して、午前の待機時間中に昼食用の握り飯を作り、トラックに用意していました。
 まもなく、覚悟を決めた矢沢隊の前に、北西方向から路外の平原をイギリス軍の機甲部隊が姿を現します。これは、第255インド戦車旅団に属する第116機甲連隊C中隊のM4シャーマン戦車隊と随伴歩兵でした。第116機甲連隊は、イギリス軍の先鋒部隊として第9ジャット歩兵連隊第3大隊やボンベイ擲弾兵大隊とともに、ピンマナ南方にあると見られた日本の第33軍司令部その他を狙って侵攻してきた部隊です。同日朝には、ピンマナ南西4kmに進出したばかりの第55師団司令部をそれと知らずに一撃しています。英軍の第116機甲連隊は日本軍の戦車隊3両が出現との情報を受けて、攻撃のため戦車1個中隊を派遣したのです。英軍は矢沢隊の偽装は巧妙だったが、戦車の履帯の跡を発見することができたと記録しています。
 M4中戦車が300mの距離まで接近した時、日本側は号令一下、射撃を開始しました。37mm戦車砲弾は次々と目標の戦車に命中しましたが、黒煙を上げるだけで装甲にはじき返されてしまいます。M3軽戦車にすら歯が立たない非力な砲ですから、M4中戦車の前面装甲に無効なことは明白でした。逆にわずか12mmの95式軽戦車の装甲は、M4中戦車の75mm砲弾はおろか、12.7mm機銃にすら貫通されかねない代物です。実際、この戦闘で英軍は徹甲弾ではなく榴弾を使用しています。イギリス側は、日本軍の3両の豆戦車Tanketteと交戦したと認識していたようで、そう思われても仕方のない性能差でした。
 英軍戦車も応戦を開始しますが、地形が日本側に有利だったこともあってか、なかなか命中しなかったようです。日本兵の記憶では、戦闘は30分近く続いたといいます(注2)。しかし、ついに一弾が2号車「あけぼの」の起動輪を粉砕し、擱座させました。生き残った乗員は車載重機を外して飛び出し、なおも歩兵として抵抗を続けます。ついで、隊長車「あかつき」も被弾し沈黙、しばらくすると車体から炎が上がり、爆発しました。矢沢大尉以下、1号車の乗員で脱出した者はありませんでした。
 唯一健在の3号車「龍」が陣地転換のため後退すると、イギリス軍戦車は接近して、擱座放棄状態の「あけぼの」にとどめを刺し炎上させました。いよいよ日本側は全滅かと思われた時、どうしたことかイギリス軍戦車が撤収に移ります。日本の戦車兵は、随伴歩兵に損害を与えたためか、あるいは頑強な抵抗が多数の予備兵力を隠していると警戒させたのではないかと推測しています。英軍側では、3両目の日本戦車を発見できなかったと記録しており、どうも日本側を全滅させたと誤認したようです。
 この戦闘による日本側の損害は、95式軽戦車2両損失と中隊長以下5人戦死でした(注1)。生き残った将兵は、段列のトラックに集まって握り飯を黙々と食べました。この日の午後も部隊は現地点にとどまりましたが、散発的な戦闘だけで済みました。なお、同日、ピンマナ南方の寺院にいた第33軍司令部は、第116機甲連隊に捕捉され蹂躙、本多軍司令官や辻参謀も命からがら逃げのびています。

 翌4月20日、シンテ川防衛線は崩壊し、ピンマナ市街にイギリス軍が侵入しました。同日午後、騎兵第55連隊第3中隊の生き残りも、街道上で南下してきたイギリス軍と出くわし、段列車が破壊炎上されてしまいます。おそらく生き残りの軽戦車「龍」も破壊されたものと思われます。
 その後の中隊の行動は、部隊史にも記載が乏しくよくわかりません。残置部隊が2個小隊はあったはずですが、状態の悪い車両が多かったことから、戦力として活用できないまま破壊放棄した戦車が多かったのではないでしょうか。残置部隊のいたニャウンレビンは、4月27日にイギリス軍部隊に突破されています。
 騎兵第55連隊主力を基幹とした神威部隊のほうは、アレンミョー付近での戦闘で重火器を全て失う大打撃を受けた後、ペグー山系を横断して師団主力と合流、第28軍の前衛として7月25日にシッタン川を渡河しました。渡河直前の7月23日に連隊長の杉本泰雄大佐が戦死しています。第3中隊も連隊主力と一緒に渡河した可能性が高いですが、はっきりとはしません。終戦時、第3中隊が後藤大尉の指揮下に残っていたことだけは確かです。
 終戦後、第55師団の諸部隊は仏印へ転進を続け、フランス軍の管理下に入りました。ベトナム独立派に対する治安戦闘に動員されるなどしつつ抑留生活を送り、翌1946年4月29日にサンジャックを出港。5月8日に広島に上陸し、翌日、連隊長の大谷少佐以下424人で復員完結しました(注3)。太平洋戦争における騎兵第55連隊の将兵のべ2067人中、生きて祖国の土を踏めた者は、中途帰還者を除くと約1/5だけということになります。(この章終わり

注記
1 「最後の騎兵隊」・454頁、前田繁義伍長の回想。

2 「最後の騎兵隊」・456頁、前田繁義伍長の回想。

3 「最後の騎兵隊」・83頁。

鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第3章・前編)

3.先遣隊の槍は砕けて

 spearhead [名詞]
  1 やりの穂先、やりの穂先のようにとがったもの
  2 攻撃や事業などの先鋒、率先する人、最先端

 1945年3月末、敗走する友軍の流れに逆らってラングーン=トングー道を北上する日本軍部隊がありました。歩兵第144連隊(長:吉田章雄大佐)を基幹とする第55師団の吉田先遣隊です。メイクテーラ攻略の余勢を駆って南下する英軍を食い止めるために、第28軍から転出してきたのでした。
 吉田先遣隊の編制は、歩兵第144連隊主力を基幹に、本章の主役である騎兵第55連隊第3中隊、山砲兵第55連隊の第1大隊他、工兵第55連隊第3中隊、独立速射砲第14大隊主力などから成ります。その装備は、山砲9門、47mm速射砲6門、95式軽戦車5両に軽装甲車10両を含みました(注1)。数字だけみると、装甲戦力や高性能対戦車砲を備えたバランスの良い連隊戦闘団に見えます。実際には、歩兵連隊主力と言っても2個中隊と機関銃中隊だけ、山砲も2個大隊+集成中隊の寄せ集め9門で内5門は人力輸送、装甲戦闘車両は中古車ばかりという難有り商品でしたが、それでも当時のビルマ戦線としては間違いなく有力な諸兵科連合部隊でしょう。
 この吉田先遣隊は、太平洋戦争前半に太平洋正面で活躍した南海支隊の後身に近い部隊でした。第55師団の一部を割いた南海支隊は、グアム攻略からラバウル攻略作戦、ポートモレスビー攻略作戦と転戦して東部ニューギニアで壊滅。再建されて、1943年11月にビルマ戦線の師団主力へ追及してきたのです。先遣隊の機甲戦力である騎兵第55連隊第3中隊も、壊滅した南海支隊騎兵隊を再建したものです。

 騎兵第55連隊は、第55師団の師団騎兵です。開戦前の1940年頃の編制では、乗馬騎兵中隊2個のほか戦車中隊(軽戦車2両・軽装甲車6両)・機関銃中隊・騎砲兵中隊各1個を有し、日本陸軍の師団騎兵としては大規模なものでした(注2)。もっとも、太平洋戦争出陣に際しては、乗馬中隊3個・機関銃中隊(速射砲2門含む)に改編されていたようです。船積やタイ・ビルマ国境山地突破の関係ではないかと思われます。連隊主力987人・馬1115頭が師団主力に従ってビルマ戦線へ、第3中隊(1個小隊欠)と機関銃小隊(速射砲1門・重機2丁)の約80人が南海支隊騎兵隊として動員されました。
 連隊主力はビルマ攻略後に、維持の困難な乗馬を手放して、徒歩中隊2個・機関銃中隊に改編されました。火砲としては速射砲2門のほか鹵獲迫撃砲2門を有していました。
 残存人員数名まで消耗した南海支隊騎兵隊の復帰後、1943年末に第3中隊を戦車隊として再建することになります。注記のとおり資料によって装備車両数にばらつきがありますが、次第に増強されて時期による違いがあるのではないかと考えます(注3)。元中隊員の回想を参考にすると1945年3月に3個か4個小隊編制で約100人、うち1個が軽戦車小隊だったようです(注4)。この編制規模からするに、1945年3月での装備は95式軽戦車5両と軽装甲車10両と見るのが妥当と思われます。元中隊員の回想で軽戦車5両を「あけぼの」「あかつき」「龍」「虎」「犀」とそれぞれ命名していたとあり、少なくとも最終的に軽戦車が5両あったのは間違いなさそうです。

 旧南海支隊関係の部隊は、ビルマ追及後、予備隊的な運用をされていました。再建間もなく練度に不安があったのでしょう。騎兵第3中隊も、騎兵連隊主力とは別行動を続けました。第2次アキャブ作戦でも、後方警備に残されました。
burma_map2.png 第2次アキャブ作戦後の1944年8月、第55師団はイラワジデルタのバセイン地区に後退します。この時期、日本の緬甸方面軍は、予想されるイギリス軍の全面反攻に対処するため、第15軍によるイラワジ会戦(盤作戦)を計画していました。これに合わせ、第55師団の属する第28軍には、イラワジデルタへ海陸から侵攻すると予想されるイギリス軍の迎撃(完作戦)が命じられたのです。第55師団は隷下部隊を、忠兵団(師団主力)・振武兵団(第55歩兵団司令部及び歩兵第143連隊基幹)・干城兵団(歩兵第112連隊基幹)・神威部隊(騎兵第55連隊基幹・注5)と4分割し、イラワジデルタ一帯の広範囲を守備させました。
 バセイン地区駐屯中の1945年1月下旬に、第55師団主力は、示威行動を兼ねた3日間の大規模な機動演習を実施しています。敵の空挺部隊降下を想定した内容だったようです。騎兵第55連隊第3中隊もこの演習に参加しており、自動車隊列の先頭に立って想定戦場を走り回りました。このとき、ある歩兵中尉は、自分のトラックを先導する騎兵連隊の軽戦車3両を初めて見かけ、第2次アキャブ作戦中に交戦したイギリス軍戦車と比べると、小さく装甲も薄い玩具のようだと思ったといいます(注6)。

 しかし、1945年3月、メイクテーラが陥落しイラワジ会戦の戦況が悪化すると、第55師団に対し、北上して第15軍方面の救援にあたるよう任務変更が命じられました。第55師団は、振武兵団・神威部隊にイラワジデルタの守備を託すと、干城兵団をポパ山周辺に進めてイギリス軍の側面を牽制させるとともに、主力である忠兵団がトングーまで北上して防衛線を張ることになります。
 転進を決めた忠兵団は、歩兵第144連隊主力を基幹とする部隊を先行させることにし、こうして冒頭の吉田先遣隊が先行を命じられることになったのです。(つづく

注記
1 戦史叢書イラワジ会戦・186~188頁。

2 戦史叢書ビルマ攻略作戦・45頁。

3 装備車両数について、戦史叢書イラワジ会戦・186頁では軽戦車5両・軽装甲車10両、戦史叢書インパール作戦・340頁では軽戦車5両・軽装甲車4両とする。原典は「第五十五師団戦史資料」とある。他方、桜井徳太郎第55歩兵団長日記によると1944年5月の時点で戦車4両と軽装甲車2両だが、指揮官が少尉となっており、中隊の一部だけの可能性がある。

4 「最後の騎兵隊」・454頁、前田繁義伍長の回想。

5 神威部隊の当初編制は、騎兵第55連隊主力(徒歩中隊2個・機関銃中隊)、歩兵第143連隊第1大隊、山砲兵第55連隊第2大隊(野山砲混成の6門)、工兵第55連隊の1個小隊ほか。1945年4月下旬には、対戦車戦力として独立速射砲第14大隊第2中隊(47mm速射砲4門)、野戦高射砲第71大隊第4中隊(高射砲4門)、独立機関銃第1中隊(機関砲16門)、策鉄血隊(肉攻要員30人)を増加配属。それ以降も、第54師団隷下部隊等の配属を受ける。
 神威部隊は、イラワジ川東岸アランミョーAllanmyo=パローPyalo?間で縦深陣地を築き、プロームへ南下するイギリス軍を迎撃するが、4月末までに突破された。

6 玉山和夫ほか「日本兵のはなし ビルマ戦線―戦場の真実」(マネジメント社、2002年)・303頁より、歩兵第112連隊第1中隊の稲澤達中尉回想。

鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第2章・後編)

2.続・方面軍に唯一つ(承前)

 3月12日薄暮、メイクテーラ(メイッティーラ)北東に集結した戦車第14連隊は、第18師団の歩兵第55連隊に協力して奪還作戦を開始します。攻撃目標は、メイクテーラ北湖の東側(市街地から見て北東)に位置する「湖東台」地区。その任務は、鉄条網を破壊して歩兵の突破口を開くこととされました。野戦重砲第3連隊の制圧射撃に続き、日本戦車はイギリス軍陣地の第一線に突入、首尾よく鉄条網を踏みにじります。すかさず歩兵も突入し、湖東台の一角は日本軍の手に落ちました。
 3月15日にも日本軍は夜襲を実施し、戦車第14連隊も参加して一定の成功をおさめます。しかし、着任間もない連隊長の相沢大佐が、徒歩視察に出た際に狙撃されて重傷を負ってしまいました(注1)。相沢大佐は兵站病院に後送されることになり、またも戦車第14連隊は連隊長を失ってしまったのです。その後、相沢大佐は、さらにタイへトラックで移送される途中、空襲に遭って落命しました。
 連隊は、連隊長代理の中村大尉の下で、戦い続けます。夜は出撃して鉄条網を蹂躙して歩兵の進撃路を開き、昼はたいていは後方に疎開して整備と補給を受けます。場合によっては、昼も前線陣地に歩兵と留まり、防戦に努めました。湖東台地区にはインパール作戦で馴染みのある第33師団歩兵第214連隊が進出し、歩戦協同作戦を展開していました。「敵戦車が来たら頼みますよ」と歩兵に頼りにされていたといいます。当の戦車兵たちは、47mm砲装備の九七式中戦車でM3軽戦車を撃破することは可能だが、M4中戦車と戦うのは厳しいと考えていたようです。ある少尉は、敵のM3軽戦車数両を射撃するチャンスがあったのに木の枝が照準口を邪魔して逃してしまったのですが、あとから考えれば中戦車や空襲の反撃により壊滅しないで済んだので、運が良かったと回想しています(注2)。
 一方、イギリス軍歩兵にとって、予期しない日本戦車の襲来は脅威であったようです。飛行場を守備していた第5インド師団に関する戦記“Ball of Fire”は、3月24日夜の日本戦車襲来について記録しています。イギリス兵たちは、最初は友軍戦車と誤認しており、日本戦車は悠々と鉄条網を破壊してしまったといいます。イギリス兵たちは恐怖に身をすくめていました。ただ、イギリス兵の見た感じでは、その戦車は、実は道を間違えて迷い込んできたのではないかとも思えたそうです。まもなく日本の歩兵が攻めてきましたが、こちらは機銃と砲撃で20人以上の死体を残して撃退されました(注3)。

 メイクテーラの激戦は2週間以上に及び、一時は日本軍が飛行場の一角を制圧し、イギリス軍の後方連絡路も遮断して孤立させました。しかし、戦車と航空機の強力な支援でイギリス軍は解囲を成功させ、日本軍を追い詰めます。3月27日、28日と湖東台の日本軍も猛攻を受け、うち27日の戦闘では戦車第14連隊の戦車1両が失われています。この戦車の詳細はわかりませんが、現在のメイクテーラに九七式軽装甲車の残骸が展示されており、あるいはそのときの被撃破車両かもしれません。
九五式野戦力作機 3月28日、日本軍はメイクテーラの奪回をとうとう断念します。戦車第14連隊は、メイクテーラ東方のサジThaziを経てメイクテーラ=ピンマナ間のピヨベPyawbweに撤退しました。メイクテーラ失陥によって修理資材到着の見込みが無くなった一式砲戦車は、実力発揮の機会を得ないままカンギーという地点で処分されています。移送困難な材料廠の資材の多くも一緒に処分されました。(右画像はメイクテーラで4月5日に第17インド師団が鹵獲した所属不明の九五式野戦力作機)

 日本軍が防衛態勢を再構築する間もなく、イギリス軍はラングーンを目指して南下を始めました。戦車第14連隊を含む第33軍残存部隊はピヨベで敵を阻止しようとしますが、西寄りに迂回したクロード・パート准将の機動部隊「クロードコルClaudcol」(クロード縦隊Claud-column、パート縦隊。注4)によって4月9日にはラングーン街道を断たれ、包囲されてしまいます。
burma_map2.png 4月10日、戦車第14連隊は、一か八かのピヨベ脱出を決意します。同日夜、連隊の全戦力である47mm砲型の九七式中戦車3両(第1中隊1両・第2中隊2両)・57mm砲型の九七式中戦車2両(第4中隊)・九五式軽戦車2両(第3中隊・第4中隊各1両)の計7両の戦車が走り出すと、段列のトラック数両が続きます。さらに他部隊のトラック数両もこの突破行動に加わりました(注5)。
 街道を南下した車列は、クロードコルのM4中戦車隊と遭遇、戦闘となります。火力・装甲とも劣る日本側は果敢に肉薄しつつすり抜けようとしたようで、車高の高いイギリス軍戦車が俯角を付けて照準するのに苦労するほどでした(注6)。しかし、第2中隊の九七式中戦車(47mm)2両が次々と被弾炎上。不利と見て急反転した57mm砲の中戦車1両も、操縦を誤って道路から川岸に落ち転覆してしまいました。かろうじて先頭の95式軽戦車1両が突破できたのみで、後の車両はやむなく引き返します。
 翌4月11日朝、今度はクロードコルの側から北上してきたため、戦闘となります。残る2両の日本軍中戦車が踏みとどまって抵抗しましたが、破壊されました(注7)。英軍側は、トーチカ化した日本戦車3両を破壊したと記録しています。
 また、前日に唯一突破に成功していた軽戦車も、まもなく「敵戦車」に発見されて破壊されています(注7)。英軍側の記録では、ピヨベ南方のヤメセン郊外で、第16軽騎兵連隊所属の装甲パトロール隊が日本戦車1両と交戦して撃破したとあり、前日に唯一突破した軽戦車のことと思われます。このとき英軍の装備は戦車ではなく装輪装甲車(37mm砲搭載)で、日本軍の歩兵の小部隊と榴弾で交戦中に、側面から出現した日本戦車に先手を取られる不利な態勢でしたが、日本側の初弾が外れたすきに装填済の榴弾をとりあえず目潰しに撃ち返し、続く徹甲弾を命中させて敵戦車を爆発させたと誇っています。英軍装甲車の車長バーダン・シン軍曹Dafadar Badan Singhは、さらに機関銃を撃って日本兵9名も倒し、この戦闘の功績によりミリタリー・メダルを受賞しています。
 あと1両残っているはずの軽戦車の最期は未確認ですが、いずれにしてもこの一連の戦闘により、戦車第14連隊の戦力はほぼ全てが失われてしまったのです。イギリス軍は、ピヨベでの戦闘で日本戦車(の残骸?)8両を鹵獲したと記録しています(注8)。

 ピヨベ脱出戦で戦力を消耗しつくした戦車第14連隊は、別動の材料廠が手配したトラックを使いながら、ピンマナPyinmanaまで人員を後退させました。ここも安住の地ではなく、4月19日にはイギリス軍が侵入しています。連隊は、近くのミョーラ貨物廠で物資を補充しつつ南下し、4月26日にトングーTaungooへ着きました。さらに転進は続き、第33軍の諸部隊とともにシッタン川河口を目指します。ラングーンへ快進撃するイギリス軍前線の後方に取り残された形で、息を潜めての行軍でした。なお、5月2日にイギリス軍がラングーンを占領しています。
 退却行の間、トングー自動車廠に九五式軽戦車が残っているから受領せよとの指示が上級部隊から出ていますが、実際には入手することができなかったのではないかと思われます。小銃すらろくに持たない徒歩部隊のままであったようです。
 5月には、戦車第14連隊はシッタン川河口東岸のビリンBilinに集結しました。ビリンでも九五式軽戦車を受領するよう指示を受けていますが、実現したのか不明です。7月に部隊を改編して2個中隊編制となり、付近の警備を担当しつつ終戦を迎えました。2個中隊の内容は、第1中隊が傷病兵、第2中隊が戦闘可能者というまことに末期的な区分でした。(この章終わり


注記
1 「戦車第十四聯隊戦記」・498頁。なお、このエピソードは、辻政信「十五対一」にも「難波中佐」の負傷として登場。

2 野尻忠邑少尉の回想。

3 Antony Brett-James “Ball of Fire” Aldershot Gale & Polden Ltd, 1951, p.404

4 クロードコルの編制は、プロヴィンス騎兵連隊の戦車大隊2個・第16軽騎兵連隊の装甲車大隊2個・自走砲中隊・歩兵大隊2個その他。4月4日にメイクテーラを出撃。

5 「戦車第十四聯隊戦記」・532~533頁。

6 アレン・下55~56頁。イギリス側戦車兵のマイルズ・スミートン大佐の回想が紹介されており、その内容は日本側の記録とよく整合しています。

7 「戦車第十四聯隊戦記」・537~538頁。

8 戦史叢書イラワジ会戦・260~262頁。
プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
連絡したいことがある方は、記事のコメント欄か、サイドバー下方のメールフォーム、あるいはツイッターから、お気軽にどうぞ。
Twitter:baron_yamaneko

最新記事
カテゴリ
検索フォーム
参加企画
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ
にほんブログ村 その他趣味ブログ ミリタリーへ
リンク
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール(不要ならそのまま):
件名:
本文: