山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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旧日本軍戦車の砲塔旋回と肩当て照準

 旧日本軍の戦車についてときどき話題になるのが、主砲の肩当て旋回・照準機構です。

 戦間期から第二次世界大戦までの世界各国の戦車では、砲塔を旋回させるために手回し式のハンドルを動力に使うことが一般的でした。砲塔リングの縁にギア溝が刻んであって砲塔が回る仕掛けです。照準調整も左右は砲塔ごとハンドル旋回して行い(下図2)、上下の調整(俯仰角)は別のハンドル操作で調整します。後になると砲塔旋回用の小型エンジンを積んだりした動力旋回砲塔も登場しますが(注1)。
 これに対し九七式中戦車チハなど日本陸軍の戦車の多くには、砲手が肩で砲尾を押し上げたりするだけで下図3のように砲塔から独立して上下左右に主砲を振れる独特の砲架構造(注2)が備わっていました。水平方向の砲耳だけでなく、垂直方向にも砲耳が通っているので砲だけが左右にも方向転換できるのです。手回しハンドルなどで操作するのに比べて瞬間的な俯仰角等の調整が容易なため、熟練した砲手ならば走行振動を体で吸収して、戦車を走らせながらの射撃(行進射)を有効に行うことが可能だったと言われます。八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲(口径57mm)で採用されて以後、九五式軽戦車や九七式中戦車などの主要な日本戦車の搭載砲に用いられてきました。
 なお、九五式軽戦車や九七式中戦車などが肩当て照準を採用といっても、砲塔の基本的な旋回動作は諸外国と同様にハンドル(転把)式の砲塔回転機を用いて行います(注3)。砲塔駐転機と呼ぶ固定装置も備わっており、このロックを解除しなければ地面の傾斜で砲塔が勝手に回ってしまうということはありません。戦車操典による正しい照準動作は、右手と右肩で砲架を支えつつ左手でロック解除→左手でハンドルを回して旋回→左手でロック固定という流れになります(注4)。
 こういうと肩当て式は良い事ずくめのようですが、搭載砲が重くなれば操作時の身体的負担は大きくなります。日本でも主に一式中戦車に搭載されたと思われる一式四十七粍戦車砲の後期型では肩当照準をあきらめて、転把照準に変えています。同軸機銃の採用も発砲反動で難しいという話があり、おそらく一番右に図示した様な現象が起きるのではないでしょうか。

 砲塔の肩当て操作と言った場合もう一種類あるのが、砲塔自体の旋回までもハンドルではなく肩当てによって行う方式です(下図1)。古くは、旋回砲塔を備えた最初の戦車として第一次世界大戦に登場したルノーFT軽戦車も、砲塔内側に設置された取っ手を握って人力旋回させるという同系列の操作法を採っています。日本では、九四式軽装甲車がその例です。
 非常に簡易な構造で済みますが、傾斜地では操作が難しくなります。なお、九四式軽装甲車の場合、砲塔駐転機でロックすることだけは可能だったようです。

<注記>
1.日本戦車でも75mm砲を載せた三式中戦車以降の中戦車では、砲塔の大型化に対応して電動式の砲塔旋回装置を採用しました。司馬遼太郎こと福田定一少尉も、戦車兵時代の回想的エッセイ「戦車の壁の中で」(初出:「小説新潮」26巻6号、1972年)において、三式中戦車の電動砲塔について言及しています。三式中戦車の電動旋回砲塔は、微妙な操作が容易だった手動式ハンドルに比べて軽快さで劣り、狙った位置に停止するのが難しかったとのこと。ただし、福田少尉が機械操作が下手だった点は差し引く必要がありそうです。また、手動に切り替えての微調整は可能だったと思われます。

2.日本戦車以外に採用例が無いわけではなく、例えばライバルであるアメリカ陸軍のM2A4軽戦車は、肩当式のM20型連動砲架を介してM3型37mm砲を積んでいました。M20型連動砲架は日本戦車同様の垂直軸砲耳を有する構造で、上下方向だけでなく左右にも10度ずつ砲身を振ることができ、またハンドルでも肩当てでも操作可能でした。後継のM3軽戦車でも改良型の連動砲架を採用しています。行進間射撃を目論んで俯仰角調整のみは肩当てによる例もイギリスなどにあったようです。

3.この点、たとえば「戦車マガジン」別冊の「帝国陸海軍の戦闘用車両」(デルタ出版、1992年)に、九五式軽戦車について「砲塔は手動旋回であるが、これはギアによる旋回ではなく、軽装甲車同様に砲手(車長)が主砲に肩を当て、肩の力で旋回させる方式だった」(64頁)とあるのは誤りです。同書65頁の砲塔内部写真でも明らかに砲塔旋回用のハンドルが写っていますし、砲塔リング部分にギア溝が掘ってあるのが見えます。

4.「戦車操典」、第2部 戦車隊教練、第46項参照

tank_turret

<参考文献>
佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他―日本の陸戦兵器徹底研究」(光人社NF文庫、2011年)
橘哲嗣「M3/M5スチュアート」(「戦車マガジン」1993年6月号、45頁)

ある731部隊関係者らしき人物の海没戦死

 ネット上のとある海軍予備士官の従軍記を読んでいたところ、少し気になるエピソードに出くわしました。
 「わがトラック島戦記」というその従軍記の著者は、海軍予備学生第3期の予備士官(最終階級はポツダム昇進で大尉)で、館山砲術学校の対空専修を経てトラック島の第46防空隊付になった方です。編制改編に伴い、第41警備隊付から第46警備隊付と所属が変わったそうですが、実質は変わらずトラックの春島で対空戦闘に従事されていました。
 問題の記述は、トラック島への移動過程が書かれた第2章「トラック島へ赴任」の中にあります。館砲を卒業した著者は、「第2長安丸」という特設運送船に乗船して1944年4月12日に横浜から出航、サイパン島とグアム島を経由してトラック島へ向かうのですが、そこで次に引用する奇妙な陸軍軍医が登場するのです。

 「第二長安丸の士官室の便乗者は、館山砲術学校同期のH、W、私(以上トラック島行き)、N、O(ポナペ島行き)と陸軍軍医少尉(どこかの島の鼠の調査とか)の6名で、指揮官、船長、1等航海士らと食事を共にした。」(太字は引用者強調)

 米軍のサイパン上陸を2カ月後に控えたこの時期に、わざわざ野生動物の調査のために南方に向かう軍医とは、いったい何者でしょうか。

 私は、この軍医少尉の正体は、満州第731部隊こと関東軍防疫給水部本部に関係する細菌戦要員だったのではないかと考えます。
 731部隊に代表される日本陸軍の生物戦組織については、これまでの研究で、サイパン島などのマリアナ諸島においてペスト菌の散布を計画していたことが判明しています。島を疫病で汚染して、米軍による航空基地としての利用を妨害しようという意図であったようです。当時においても細菌兵器の実戦使用は国際法違反でしたから、この作戦は陸軍参謀本部の関与の下で極秘裏に進められていたと推測されています。
 このマリアナ諸島での細菌作戦準備のため、731部隊などから十数人の軍医・研究員らが集められて、中部太平洋方面へ海路派遣されたのですが、実はこのうち岩崎光三郎軍医大尉(当時)指揮する3人が「わがトラック島戦記」の著者と同じ松5号船団加入船の「第18御影丸」(トラック島行き)に乗船していたのです。当時の海上移動は危険になっていましたから、敵襲による被害極限のため分散乗船することは十分に考えられます。
 そして、マリアナで生物兵器としての使用が予定されたペスト菌は、ネズミとノミによって媒介される病原体です。731部隊でもペスト感染させたネズミにより蔓延させる方式が検討されており、ネズミは不可欠な作戦資材でした。
 問題の軍医少尉は、このペスト作戦用ネズミの現地調達の可能性や、野生ネズミへの伝染がどの程度期待できるかなどを調査するため、派遣されたのではないでしょうか。悠長な生物学調査ではなく、米軍上陸後に備えた特殊任務であったとするなら、こんな時期にネズミの調査に赴くのも納得できます。研究者の秦郁彦によれば、マリアナ作戦用の派遣要員にネズミ飼育担当の軍属が含まれていることから、作戦資材のネズミも携行していたのではないかといいます。しかし、ネズミの大量輸送は共食いなどのおそれから難しく、現地調達の可能性を探るためのネズミ調査が並行して行われたとしても、不自然ではありません。
 ただ、後述のようにほぼ同時戦死となる731部隊岩崎軍医らに対しては異例の参謀本部葬が行われるのですが、その際に謎の軍医少尉に該当する人物は祭神となっていないことが気にかかります。同じ任務であれば、一緒に葬儀が行われてもおかしくないと思われますが、指揮系統上で参謀本部直轄要員ではなかったとすれば一応説明はつきます。

 そもそも予備的調査段階だったのか、あるいは実行寸前だったのか不明ですが、結果としてマリアナ諸島での細菌兵器実戦使用は無かったようです。「わがトラック島戦記」の著者や軍医少尉が乗船していた「第2長安丸」と、岩崎軍医ら乗船の「第18御影丸」は、ともにグアム島を出港後の5月10日未明、米潜水艦「シルバーサイズSilversides」に相次いで雷撃されて撃沈されてしまいました。謎の軍医少尉はこの戦闘で戦死し、「第18御影丸」の岩崎一行も全滅しています。731部隊要員の中にはサイパン島に上陸したグループもあるようですが、同地の玉砕戦に巻き込まれ、生存者は全くないといいます。
 秦郁彦は、仮にペスト菌を実戦投入すれば日本軍の方が被害を受ける結果になったのではないかと推測し、使用が無かったのは幸いであると評価しています。私も、大きな被害を受けるのは衛生装備不十分な日本軍の方で、しかも推定2万人の日系民間人や多数の現地人が居住していたこと、万一露見すれば米軍による報復を誘発しただろうことを考えると、実戦に至らずに済んで本当に良かったと思います。

参考文献
自由平の書棚」より「わがトラック島戦記
秦郁彦「昭和史の謎を追う〈上〉」(文春文庫、1999年)より「日本の細菌戦」

ノモンハン事件で旧日本軍が毒ガス戦を準備

『旧日本軍が満州で毒ガスの実戦使用を計画していたことが、防衛省防衛研究所で発見された関東軍の機密文書から明らかになった。発見された文書は、国際法で使用が禁止されていたマスタードガス弾7000発を前線に送るよう指示したノモンハン事件時の関東軍の作戦命令。ノモンハン事件は、太平洋戦争前の1939年に満州(現在の中国東北部)で起きた、日本の関東軍とソ連・モンゴルの軍事衝突で、日本軍がソ連の機械化部隊によって惨敗した。××大学講師の○○さんによると「日本軍の戦争犯罪を明らかにする貴重な史料。日中戦争での化学兵器使用はこれまでも知られていたが、ノモンハン事件に関しては初めて。日本軍は、毒ガスで戦況を挽回しようと考えたのではないか」という。』(毎朝新聞2011年5月21日

 ノモンハン事件時の迫撃第2連隊についてまとめてみたところ、ノモンハン事件ではかなり具体的な化学戦準備がされていたことがわかります。当時の状況を思えば、常識的な対応だと思いますが。ただ、センセーショナルな報道をしようと思えば、ネタにはなりそうな気がします。
 なお、この辺の化学戦の話は、たしか吉見義明の本にもすでに取り上げられていたと思ったので、新しい話ではないです(追記参照)。

関連記事:「鋼棺戦史:第1部第5章 悪名高き部隊

追記(2011年5月24日)
 確認したところ、吉見義明「毒ガス戦と日本軍」(岩波書店、2004年)の118頁に言及あり。

死傷3割の損害は全滅なのか

「損耗率3割で全滅判定を喰らう事は軍事的には常識なのですが、世間にはあまり知られていません。」(週刊オブイェクト

 戦術用語での「全滅」は、日常用語とは異なって、一人の生き残りもいない状態を指すわけではありません。部隊としての組織的戦闘継続が不能になった状態を「全滅」と評価するからです。まあ、辻政信@ノモンハン事件の「全滅とは何事か!貴様たちが生きてるじゃないか!」という具合に、軍人さんでも日常用語の方を使うことはもちろんあります。
 さて、俗に損害が3割を超えると全滅だと言うようですが、これの出典はどこなのだろうと気になっています。厳密な定義ではなく経験則的なものなのでしょうが、誰が言い出したのでしょうか。
 探してみると、戦史叢書の「関東軍<1>」の681頁で気になる記述に行き当たりました。いわく日本陸軍においては、短時間に部隊の30%の打撃を受けた場合には一時的に戦闘力が失われ、50%の打撃を受けた場合には殲滅的打撃と判定していたのだといいます。これは日露戦争等での経験から得られた法則なのだそうです。戦史叢書の出典情報によれば、原典は陸軍大学校編「戦史講義録」(下巻、1925年)の鈴木重康中将(最終階級)となっています。
 もし、30%で全滅ルールというのが日本陸軍独特の経験則だとすると、ちょっと興味深い話だと思います。「戦史講義録」にあたってみたいところですが、あいにくと持っておりません。お持ちの方があれば、教えていただけると助かります。

追記
 この話題に関してTwitter上で興味深い発言が色々と出ていたので、まとめてみました。世の中って詳しい方がたくさんいるんだなと、とても参考になりました。
 「3割死傷で全滅が軍事の常識って本当なのか?」(Togetter)

参考文献
防衛庁防衛研修所戦史室「関東軍<1>対ソ戦備・ノモンハン事件」(朝雲新聞社、1969年)

戦史叢書の改訂版のこと

 昨日の記事で「戦史叢書」について改訂版が出ると書いたのですが、その後に気になって防衛研究所の公開情報を確認したところ、あまり期待しすぎないほうが良いみたいです。

 改訂版がでるという情報のソースとしては、2003年8月12日の読売新聞の報道があります。読売新聞によれば、戦後の安全保障なども盛り込んだ全面改訂版をCD-ROMの形で出すといい、「約10年後」(当時。つまり2013年頃)に1巻目を出したいとなっていました。

 ところが、当の防衛省防衛研究所戦史部(今の「戦史叢書」を出した時には防衛庁防衛研修所戦史室だった部署)は、この読売報道よりあとの時期に、戦史叢書の改訂版や要約版の発行について、戦史部の能力・組織・時間的に多くの困難があるとしています。これは、2007年(平成19年)に戦史部主催で行われた戦争史研究国際フォーラムにおいて、加賀谷貞司戦史部長が、議長総括の中で述べているものです(注1)。
 議長総括によると、戦史叢書については、旧軍人が執筆したことによる客観性・学術性への疑問、陸海軍別になってしまった記述(特に戦争指導関係)などの問題点が指摘され、改訂版や要約版が要望されているとします。しかし、現在の戦史部の体制では、教育や国際交流などの任務もあることをふまえると、対応は非常に困難だといいます。かつての編纂はのべ100名以上の研究員で、しかもほとんどが従軍経験者という充実した態勢で、20年以上をかけて行ったものだそうです(注2)。
 その代わりに現体制で可能なこととして、この平成19年度国際フォーラムのテーマを「太平洋戦争の新視点-戦争指導・軍政・捕虜-」と設定したというのです。新たな視点から新史料も駆使して太平洋戦争を再検討することが有意義であると説明されています。

 また、防衛研究所長の出した通達(注3)でも、戦史叢書の補完も触れられてはいるものの、具体的な改訂版発行の話までにはなっていません。現在の防衛政策に関係する戦史研究や、緊急性のある史料収集(関係者が生きているうちにオーラルヒストリーを聴取等)が優先事項となっており、太平洋戦史叢書はリソースの関係で基本的に後回しという感じです。
 なお、この通達の発出時期は平成15年7月で、冒頭の読売報道の少し前にあたり、これが記事の元ネタではないでしょうか。通達の内容を知った読売新聞記者が取材して、
 読売「『出版形態や体裁』とはなんぞや?」
 防衛「例えばCD-ROMの利用が考えられる。」
という様なやりとりがあったのかなと想像します。通達には、直接に戦史叢書の話ではないものの、戦後の現代史の編纂も必要という記述があり、読売報道に言う「戦後の安全保障なども盛り込」むという話によく似ています。この想像が当たっているとすると、残念ながら読売報道は勇み足だったということになりそうです。

 ただ、読売の早とちりだとしても、まだ希望を捨ててしまうには早いでしょう。早いと信じたい。
 加賀谷レポートによると、平成19年度からの新事業として海外史料の収集が始まっているそうで、旧日本軍の散逸史料や連合国側の戦争指導関連史料が調査されているといいます。連合艦隊の戦時作戦日誌のうち開戦直後の欠落部分がメリーランド大学で発見されたという話がありましたが、実はこの事前調査で得た成果だったとのこと。
 「ソースは確実だが明かせない系」と称し、密かに作業は進められてるぞという2009年1月(?)の2ちゃんねるへの書き込みもあります。そんなもの信用出来るかと言えばそのとおりで、逆に、関係者からそういう計画はないと聞いたと言う話もあったりします。
 いずれにしろ、なんらかの形で新史料に基づく研究成果は発表されるはずです。前述の通達にも補完計画が一応は挙げられているわけです。たぶん、読売新聞の言うような全面改訂版というよりは、補遺ないし小規模な「続・戦史叢書」のような形に収まるのではないかと思います。そのくらいならなんとかなるはず、と漠然たる希望的観測であります。
 なお、個人的な願望としては、とりあえず内容は旧版のままでも構わないので、PDFなど語句検索可能な形で電子化して一般向け公開して欲しいです。もちろん、逐次作成したという「正誤表」や「引用集」、おそらく今は部内専用のもの、を加えていただけると非常にうれしいのは言うまでもありません。まあ、戦史叢書みたいな詳細な戦史を電子化しても、喜ぶのはおおかた軍事オタクどもでしょうから、あまり優先順位は高くないのだろうなあ(注4)。


追記
 戦史叢書の電子化は、国立国会図書館の電子化事業のほうに期待した方がいいのかもと、後から思いました。
 あと昭和館で、すでに電子テキスト化されてましたね。注4の部隊略歴と同じく、昭和館内の端末から使えます。一回使おうとしたらフリーズして以来、使ったことが無いので忘れていました。印刷媒体の現物が開架図書で全部揃っているので、そちらで間に合ってしまう面があり。

 hikasukeさんが教えて下さったところによると、デジタル化と3分冊程度の概説書編集が進んでいるそうです。デジタル化については、とりあえず研究者や防衛研究所の史料閲覧室用に試行運用をはじめるとのこと。概説書のほうは独立回復までの時期を扱うそうで、停戦後のあれこれが出てくるのかと楽しみです。詳しくはhikasukeさんのブログ「鋼鉄の嵐の中で」をご覧ください。(2010年6月18日追記)


注記
1 加賀谷貞司「太平洋戦争の新視点-戦争指導・軍政・捕虜-」(平成19年度戦争史研究国際フォーラム)

2 ちなみに現在の戦史部所属の研究者は、公式サイトに掲載されている名簿によると29名。

3 「戦史史料編さんに関する指針について」(平成15年7月22日発、平成19年1月9日改正)

4 軍事オタクが喜ぶ以外には、従軍経験者やご遺族が、所属部隊のことを自分でも調査しやすくなるということはありそうです。部隊名や通称号で検索できれば、だいぶ容易になるはず。なお、復員時にまとめた部隊略歴はすでに電子化されていまして、昭和館で一般公開されて非常に便利です。
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山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
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Twitter:baron_yamaneko

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