山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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日本の戦時商船塗装がカウンターシェイド迷彩であったことを示す史料

1 日本商船の大戦後期仕様迷彩
外舷2号色系迷彩 太平洋戦争後期、日本商船の多くは緑色の迷彩塗装を施されていました。いわゆる外舷2号色系迷彩というもの。

 当時の日本では、有事の商船保護のため船舶保護法(昭和16年法律第74号)という法律があり、その第3条1項が、「命令」(注1)の定めるところにより、海軍大臣(またはその委任を受けた海務院長官(後に海運総局長官))が船主等に対して戦時に船の設備について必要な指示を出す権限を与えていました。この条項にいう「命令」としては船舶保護法及関東州及南洋群島船舶保護令施行規則(注2)が制定されており、その第5条で海務院長官(後に海運総局長官)が船舶保護法3条の規定により運航業者や船主に船舶の自衛設備などに必要な指示を出せることになっていました。
 件の緑色の商船迷彩も、この船舶保護法に基づく海運総局長官の船舶保護指示第29号(注3)として定められたものです。なお、この緑色の外舷2号色系迷彩が採用される以前には、「防空鼠色」(外舷1号色系迷彩とも)という紺青顔料の入った青みがかった灰色が使われていました。

SS_TatsuyouMaru.jpg 外舷2号色系迷彩はおおむね右上のイラストのような塗り分けになります。その下の画像は2A型戦標船の実物写真(注4)で、白黒写真ですが、実際に舷側が塗り分けされていることが判ります。ただし、水線部の塗装は指示通りに実施されたのか疑問もあるようです。2号色水線塗料は「赤色水線塗料の代用品」と書いてあり、既存の赤色水線塗料が調達できるかぎりはそちらを使い続けていたのかもしれません。

2 理論的根拠についての仮説
 右上イラストのように船体の船首尾部分を舷側中央より明るめの色とする迷彩塗装について、何か理論的根拠があったのでしょうか。
 この点について、『モデルアート5月号臨時増刊―軍艦の塗装』(以下『軍艦の塗装』)では、船体を小型に見せかけて距離測定を誤らせる狙いだったようだとしています(加藤、8頁)。同書は、米海軍のメジャー8系迷彩(巡洋艦の船体の一部を明るい灰色に塗り分けて駆逐艦に見せかける方式)に似た方式と述べます。
 一方、岩重多四郎が、カウンターシェイド迷彩の理論に基づいているとの仮説を提示していましたが、「根拠資料は今のところ見つかっていない」として裏付け史料は未確認でした(岩重、24頁)。カウンターシェイド迷彩というのは、物体の陰影が付く部分を明るい色に、逆に陰影の付かない部分を暗い色に塗ることで、見かけの明暗差を無くして目立たなく背景に溶けこみやすくなるという発想の迷彩塗装です(注5)。

3 海軍航海学校における研究報告書
 気になってアジア歴史資料センター(JACAR)でウェブ公開された史料を調べたところ、この外舷2号色系迷彩がカウンターシェイド迷彩の理論に基いて制定されたことを示す記述を、海軍航海学校 『研究実験成績報告 第 号(船舶迷彩研究実験)』 という史料(以下「本件報告書」。注6)の中に確認することができました。

 この史料は、1943年4月2日付の海軍大臣訓令(注7)にもとづき、同年4月~7月に日本海軍の海軍航海学校で行われた迷彩塗装に関する研究の報告書です。ただし、現時点でアジ歴に公開されているのは、その報告書を陸軍の第三陸軍技術研究所が陸軍船舶の迷彩塗装研究の参考資料として入手した写しです。そのため、原本にある色見本が省略されている難点があります。
 この海軍航海学校における迷彩塗装に関する研究の存在自体は、従前から知られており、例えば『軍艦の塗装』でも「昭和18年3月に横須賀の海軍航海学校に設置された対潜塗色の委員会」について言及があります(加藤、84頁)。
 船舶保護指示第29号の中で、外舷2号色系迷彩は海軍航海学校の研究により夜間に有効な迷彩と判定されたことが説明されており、本件報告書が制定の基礎資料になっていることが窺えます。

 その研究内容としては、1943年4月2日の海軍大臣訓令にもとづき、日本近海での対潜自衛を主眼に、(1)視認を困難にする迷彩、(2)方位角判定を困難にする迷彩、(3)速力判定を困難にする迷彩の3項目がテーマになっていました。
 横須賀鎮守府に呉鎮守府が協力する建前で、実質は横須賀の海軍航海学校を中心とした委員会(委員長:三川軍一海軍航海学校長)が設置され、航海学校や機雷学校などの実施学校や在勤武官・防備隊などの護衛部門などの海軍士官多数のほか、船舶運営会や日本郵船関係者も若干参加しています。
相良丸 次のとおり実船に迷彩塗装をして比較し、潜水艦や航空機を使って観測するかなりの規模の実験が行われています。実験に先立つ予備調査では、ドイツ商船の「リオ・グランデ Rio Grande」や、特設運送艦「相良丸」(右画像)も観察対象になっています。この「相良丸」には、戦後に著名となる福井静夫技術少佐考案の特徴的なダズル迷彩が施されていました(注8)。

 5月26日(予備実験):駆逐艦「葦」(右舷1号色・左舷2号色)、「楡」(右舷3号色・左舷4号色)
 6月3日(第1回実験):第7603船団(横浜→神戸)加入の「昭宝丸」(1号色)、「清洲丸」(2号色)、
    「五星丸」(3号色)、「親和丸」(4号色:舞廠式塗粧、注9)、「諾威丸」(5号色:ドイツ船式)
 6月24日(第2回実験):第1624船団(横浜→釧路)加入の「弘和丸」(2号色系塗り分け)、
    「大成丸」(5号色系塗り分け)、「乾瑞丸」(鼠色)

 本件報告書冒頭の成果概要を見ると、「(ニ)上部構造物及び船首尾は陰影を消去する為、淡色とするを要し、二一号色、五一号色を可とす」(原文カナ。送り仮名・読点を補う。)と書かれており、外舷2号色系迷彩において船首尾に明るい21号色塗料が採用された理由がカウンターシェイド迷彩であったことがわかります。
 このほか、マストの頂部を淡色とすべきこと、沿岸航行で陸地が背景の場合に2号色系が有効なこと、迷彩により方位角・速度判定を妨げるのは困難という意見が出てこの目的に有効な塗装案に至らなかったことなども記されております。なお、塗装関係以外に、方位角判定を困難にするために鳥居形のデリックポストは避け、単脚マストにすべきことや、前後のマストを中心線から左右に振り分けて設置すべきこと、迷彩だけでは視認防止が不十分なのでマストの短縮が急務であることなども指摘されています。

 本件報告書は、外舷2号色系迷彩がカウンターシェイド迷彩であったことを裏付ける史料というだけでなく、米英海軍に比べて体系的でなかったと言われる日本海軍の船舶用迷彩研究について、実際のところ、どの程度の研究がされていたのか伺われる史料として興味深いものと思います。なお、本件報告書には、日本海軍の空母に外舷2号色系迷彩類似の緑色迷彩が適用された理由については直接触れられていないため、その点はさらに調査が必要なところと思います。

注記
1. ここでいう「命令」とは、個別的ないわゆる命令の意味ではなく法令の形式の分類で、国会の議決による「法律」以外の行政機関が定める法令の総称。「政令」や「省令」の類のこと。

2. 施行規則の名称が長いのは、船舶保護法を関東州などの船籍船につき準用した関東州及南洋群島船舶保護令(昭和16年勅令第458号)の施行規則も兼ねているため。

3. 「船舶保護資料第18号」『昭和十九年度 船舶保護資料綴』 1944年、JACAR Ref.C08050094900、画像14枚目。

4. 出典:「中国軍艦史月刊」>「台湾海域日本沈没船艦紀録」によると「辰洋丸」(辰馬汽船、6892総トン)。

5. カウンターシェイド迷彩については「岩重輸送船団史」>「塗装ガイド」にイラスト付きの解説あり。

6. 海軍航海学校 『研究実験成績報告 第 号(船舶迷彩研究実験)』 1943年、JACAR Ref.C14020256800

7. 海軍大臣 「船舶ノ迷彩ニ関スル実験研究ノ件訓令」 (昭和18年4月2日官房備機密第117号)

8. 「相良丸」の迷彩について、福井本人によれば、塗装をしたシンガポール現地では「他の艦船に比して著しく効果が大である」と好評だったそうです(福井静夫 『日本特設艦船物語』 、光人社、2001年、190頁)。そのため、研究対象に選ばれたのかもしれません。もっとも、本件報告書では「相良丸に対する航海学校に於ける観測成績に依るも方位角並に速力判定を困難ならしむるに適当なる塗粧法に関しては結論に達せず」(原文カナ)とあり、顕著な効果は確認できなかったように思われます。

9. 舞鶴海軍工廠式の迷彩塗装と思われるが詳細不明。

参考文献
岩重多四郎 『戦時輸送船ビジュアルガイド―日の丸船隊ギャラリー』 大日本絵画、2009年。
加藤聡(編) 『モデルアート5月号臨時増刊―軍艦の塗装』 通巻第561集、モデルアート社、2000年。
 

末期戦グルメ

Palmito.jpg 太平洋戦争期の日本軍陸戦もの従軍記というと、後半は戦闘というよりサバイバル日記になってしまうことが多いです。
 食料集めの定番では、三八式歩兵銃で野豚や水牛を撃ったり、手榴弾を使った爆弾漁で魚を獲ったり、サツマイモを植えて芋が育つのを待ちきれず芋のツルや葉を煮たり、現地人の畑や家を荒らしたり。行き着く果ては「野火」の世界になってしまうわけですが。
 さて、その中で美味しいと評判が良いメニューに、椰子筍(やしだけ)があります。椰子の木の先端の成長点辺りの柔らかい部分の芯が、ちょうど筍のように柔らかくて、薄甘くて、汁の実に良し、生でもいけると不足がちな野菜代わりに食べられたようです。ただし、採取してしまうと椰子の木が枯れてしまうので、日本兵が椰子筍を食い荒らして、現地人の貴重な財産である椰子の木を枯らして恨まれることもよくあったとか。
 いろいろな本に出てくるのでどんな味か試してみたいと常々思っていたのですが、アマゾンで普通に売っていることを知りました。パルミット(Palmito)という名で、エスニック食材として一般的なものだそうですね。右の写真のとおり、収穫して加工してるようです。もしかしたら、知らずにすでに食べたことがあるのかもしれないと思いつつ、そんなに高くないのでそのうち買って食べてみようかしらと思います。調理法は、海水味の塩汁が末期戦の味として最もふさわしいのかなあ。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ、作者:Ricardo Eliezer de Souza e Silva Maas

昭和は遠くなりにけり

 NHKの「証言記録 兵士たちの戦争」という素晴らしい番組と、その書籍化シリーズがあります。第二次世界大戦時の日本軍部隊を各回ひとつ取り上げて、関連する従軍経験者のインタビューを基礎に淡々とまとめた内容。
 その第2巻の帯にふと目をやると「全七巻刊行予定」という文字があり、そして2012年7月にその第7巻が刊行済みであることに今さら気付き、いよいよこの種の証言ベースの番組は制作困難なほど存命の従軍経験者が減っているのであるなとぼんやりと思いました。

鋼棺戦史(第5部 終焉・第1章・前編)

1.沖縄の戦い

 太平洋戦争における日米最後の決戦場となった沖縄。1945年4月当時、沖縄を守備する日本陸軍の第32軍は、沖縄本島へ第24師団・第62師団・独立混成第44旅団、宮古島へ第28師団・独立混成第59旅団・独立混成第60旅団、石垣島へ独立混成第45旅団、奄美諸島に独立混成第64旅団を配置していました。8個兵団の大兵を擁する第32軍ですが、その機甲戦力は軍直属の戦車第27連隊と第24師団隷下の捜索第24連隊および第24師団制毒隊というささやかなものでした。

 最有力の戦車第27連隊は、戦車第2師団の偵察部隊である師団捜索隊を抽出改編したものです。絶対国防圏の守備固めのため1944年3月17日に昭和19年軍令陸甲31号により臨時動員が下令されました。同時編成で硫黄島に送られたバロン西の戦車第26連隊(戦車第1師団捜索隊を抽出改編)とは兄弟分にあたります。
 前身である戦車師団捜索隊はもともと軽戦車中隊2個・中戦車中隊1個・乗車中隊(機械化歩兵)・整備中隊から成る諸兵科連合の編制でしたが、戦車第26・第27連隊の編制は軽戦車中隊1個・中戦車中隊2個・歩兵中隊・砲兵中隊(90式野砲4門)・工兵小隊・整備中隊という一段と強化された小型戦車師団というべき諸兵科連合部隊になっていました。これは、島嶼戦での独立部隊運用に対応するための編制でした。
 さて、満州勃利で編成された戦車第27連隊は、1944年6月に発生したサイパン戦により戦車第26連隊とともに逆上陸部隊として出撃準備を命じられますが、すぐに作戦中止となります。そして次の侵攻目標と危惧された沖縄へ派遣されることになったのです。同年7月、連隊長の村上乙中佐以下700人・九七式中戦車25両・九五式軽戦車14両が沖縄へ進出し、うち第3中隊(中戦車11両・軽戦車1両)と整備1個小隊(トラック3両・修理車1両)の人員114人は宮古島へ分遣されています。装備中戦車について、戦史叢書では「八九式中戦車(チハ改)」という妙な表記になっていますが、現存する写真を見る限り57mm砲搭載の九七式中戦車だったようです。
 戦車第27連隊の最終編制は、戦史叢書によると第4中隊として3個目の中戦車中隊が存在したものの、車両欠で車載重機24丁のみ装備であったとされます。これに対し、終戦直後に生還者の報告を復員省がまとめた「史実資料」の中には、沖縄進出後の1944年10月に増加装備による「特編中戦車中隊」を隊内限りで編成したとする例もあります。私見では、これらは同一の部隊を指しているのではないかと思います。

 捜索第24連隊は、第24師団の機械化偵察部隊で、もともとは関東軍の優良装備兵団であった第24師団にふさわしく戦車中隊や機関銃中隊を含む編制であったようです。しかし、1944年2月頃に「ロ号演習」の名で行われた絶対国防圏用の守備隊派遣の際に、戦車中隊や機関銃中隊は抽出されてしまいます。そして、同年7月に師団主力とともに沖縄へ向かう際、重装備を残置して本部と徒歩中隊2個の縮小編制に変わり、連隊長の才田勇太郎少佐以下449人でした。このほか、20mm機関砲2-3門・重機関銃2丁の重火器隊(隊長:富樫中尉)を作戦中に臨時に編成しています。

type94chemical.jpg 最後の第24師団制毒隊は、第24師団の化学戦部隊です。五十嵐正二郎大尉以下227人で、本部と1個中隊(発煙小隊・消毒小隊各1個)から成る編制だったのではないかと推定します。前身は第24師団軽装甲車訓練所で、毒ガス中和剤を散布するための甲号消車という特殊な装甲車両を消毒小隊に5両装備していました。
 この甲号消車は九四式と九七式の2機種あり、それぞれ九四式・九七式軽装甲車の派生車両(前車)により、散布機材を積んだ無人トレーラー(後車)を牽引して遠隔操作するというものです(左画像)。
 沖縄本島で撃破された所属不明の九四式軽装甲車の写真が複数車両分残っていますが(右画像)、私はその正体が第24師団制毒隊の九四式甲号消車の前車ではないかと考えています。tankette_syuri根拠は、他に軽装甲車を装備していた部隊の記録がないこと、後部ハッチに通常の軽装甲車では見かけない部品が付いており(注1)、後車を遠隔操作するためのケーブルの支持装置に思えることです。発煙筒を装着している点も化学戦部隊らしいですが、戦車第27連隊も沖縄戦で発煙筒を戦車に装着しており、あまり判断材料にはなりません。また、残念ながら甲号消車前車の車体後部の写真を見たことがなく、後部ハッチの部品が遠隔操作用ケーブルの支持装置だというのは全くの想像であり、もう少し検証の必要があると思います……と言っていたら、さっそくただの尾灯ではないかとのご指摘を受けました

 以上の3部隊のほか、沖縄戦に四式15糎自走砲(ホロ車)が参加していたとする文献もありますが、個人的には疑わしいと考えています。(中編につづく)

注記
1 後部ハッチに似たような部品がついた九四式軽装甲車の写真を1枚だけ見たことがありますが、これも所属部隊が不明です。その後、指摘を受けましたが、ただの尾灯のようです

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その3)

3.独立中隊の挽歌(承前)

 独立戦車第8中隊(旧独立戦車第9中隊)は、1944年7月15日にマニラへ人員の主力が上陸。後発の装備を待つ間、鹵獲品のM3軽戦車を貸され、飛行場の整地に協力しています。これは乗員の操縦訓練を兼ねていました。対戦車攻撃演習の標的役も請け負ったようです。
 爆装した軽装甲車と鹵獲M3軽戦車を使って実施された体当たり攻撃の実験にも、操縦要員を差し出しています。この実験では、観閲中の山下奉文第14方面軍司令官が負傷する事故が発生してしまいました。一方で実験成果は後に戦車第10連隊第5中隊によって実戦に生かされることとなります(詳細は第3部第2章予定)。
Luzonmap.png
 9月10日にようやく正規装備の八九式中戦車甲11両を受け取った独立戦車第8中隊は、第105師団(勤兵団)へ配属され、師団とともにルソン島南部へ移動を開始します。戦車は鉄道輸送、トラック等は自走して、南東端に近いナガ周辺に分駐しました。移動中にゲリラとの戦闘などでトラック1両と中尉1人・兵1人を失っています。この点、第105師団兵器部の村田三郎平の回想(注1)では、10月6日に田保准尉の率いる八九式中戦車3両の独立戦車隊がナガへ到着し、既存の戦車隊と集成して中隊を編成したとあります。しかし、独立戦車第8中隊の細田正一の回想によると、田保小隊はもともと独立戦車第8中隊の一部です。移動・駐屯の過程で分離行動したのを誤解したのか、あるいは松元中隊長が鹵獲M3軽戦車で別途編成されていた第105師団特種戦車隊(詳細は第3部第4章予定)の隊長を兼務したことを指すのでしょうか。
 ナガ近郊のマバトバトという町に駐屯した第105師団工兵隊の経理士官は、分駐していた戦車隊のナガへの連絡便に部下を便乗させてもらい、買い出しに活用していたと回想しています(注2)。第105師団は現地編成の部隊で輸送力が不足していたため、自動車化された独立戦車第8中隊の存在は貴重だったでしょう。

 米軍上陸も迫った12月17日、第105師団主力にルソン中部アンティポロ(アンチポロ)への北上が命じられ、独立戦車第8中隊もこれに従って転進することになります。中隊は2便に分けての鉄道輸送と決まりました。部隊員の細田回想によると、12月29日に松元中隊長直率の第一陣(戦車5両・トラック3両・人員74人)が出発したが、第二陣の太田少尉隊(戦車6両・トラック2両・人員60人)は出発前の空襲でトラックや燃料を全損して戦車も放棄とあります。他方、師団高級副官の藤田相吉少佐の手記によると、12月30日にナガ駅がB-24数機の空襲を受けて工兵隊の弾薬が爆発して駅舎半壊も、1945年1月1日早朝に戦車隊の半数と工兵隊の一部を載せて列車出発、その後に鉄橋がゲリラに爆破され鉄道不通となっています(注3)。太田少尉以下の第二陣の生存者は、取り残されて第8師団の指揮下に入ったようですが、以後の詳細は不明です(注4注5)。

 アンティポロに転進した中隊主力は、米軍上陸1週間後の1月13日に同地を発って国道5号をさらに北上、1月18日にはカバナトゥアン(カバナツアン)へ進出します。厚生省編纂の部隊略歴によると、1月20日に戦車第2師団へ配属変えとなったとあります。
 1月20~21日には、前回述べたようにカバナトゥアン西方タルラック所在の機動歩兵第2連隊の2個中隊が施設を破壊して撤退していますが、独立戦車第8中隊もこのタルラック方面の橋梁爆破援護のため戦車1両を派遣しました。アメリカ陸軍公刊戦史によると、1月21日夜にカバナトゥアンとタルラックの間のラ・パス(La Paz)へ戦車1両に支援された日本軍1個小隊が出現し、アメリカ軍第37歩兵師団の第148歩兵連隊を襲って橋を破壊して去ったといいます(注6)。この記録はおそらく独立戦車第8中隊のことでしょう。
 この小さな戦闘はマニラを目指すアメリカ軍左翼に相当の脅威を感じさせました。カバナトゥアン付近の日本軍は移動中の第105師団の一部程度だったのですが、アメリカ軍は戦車第2師団の主力(実際にはもっと北)が存在するのではないかという疑いを持ったようです。アメリカ軍左翼の第1軍団が補給線整理も兼ねて一時停止、右翼第14軍団の第37歩兵師団が第1軍団地区まで偵察隊を派遣、第14軍団のクラーク飛行場群への進撃が数日遅延する大きな効果を生じています。

 独立戦車第8中隊はカバナトゥアンから北上を続け、1月27日ころにムニョスを守る戦車第2師団の戦車第6連隊主力と出会います。松元中隊長は戦闘協力を申し出たようですが、戦車第6連隊長の井田君平大佐から速やかに転進せよと断わられました。その後、ムニョスは2月1日以降、西からアメリカ軍の侵攻を受けて激戦となり、戦車第6連隊は戦車約50両が全滅、井田連隊長も戦死しています。
 2月2日、独立戦車第8中隊は、板垣少佐の指揮する戦車第2師団速射砲隊基幹のリサール(リザール)地区隊の指揮下に入ることを命じられました。2月3日ころにカバナトゥアン=ムニョス間のバロク三叉路付近(注7)へアメリカ軍軽戦車2両が出現したとの通報を受けると、中隊は戦車2両で迎撃に向かいますが、敵戦車は交戦せず撤退しています。その後、中隊は戦車1両をエンジン故障で失いつつ、リサールへ到着。
 2月5日、戦車第2師団は撤退命令を受けます。リサール地区隊も後退をはかり、独立戦車第8中隊が援護を命じられます。2月6日、中隊はリサールを脱出し、戦車1両が穴に転落して放棄されたほかは後退に成功します。翌2月7日、アメリカ第6歩兵師団の第63歩兵連隊がリサールを占領しました。リサール地区隊は全速射砲と板垣少佐を失い、2月13日に残存戦車5両が戦車第2師団司令部に掌握されたのみでした。

 3月10日、独立戦車第8中隊は、再び第105師団に配属されます。これより前に、リサールからカラングランを経由して国道5号に戻り、北上してバレテ峠を越えていたものと思われます。サンタルシアというバガバッグ北方の田園地帯へ第105師団の速射砲隊(臨時速射砲第2中隊のことか?)、鹵獲M3軽戦車隊(第105師団特種戦車隊のことか?)とともに布陣し、空挺部隊に対する警戒にあたりました。幸運にも一帯は第105師団の主な食料調達に使われているほど主食の米も副食の野菜や畜肉も豊富でした。空襲はそれなりに激しく、マラリアの流行地域でもあったようですが、末期フィリピン戦には珍しい安息の日々でした。
 5月下旬についにバレテ峠・サラクサク峠の防衛線が突破され、独立戦車第8中隊にも再び前線に立つときがやってきます。6月2日または3日、第105師団は、中隊にアメリカ軍の北上阻止を下令。中隊は、残存全力2両と段列に臨時編成の工兵中隊を引き連れると、国道4号からバガバッグで国道5号へ入り進撃します。バヨンボン付近へ差し掛かったところで、戦車のうち1両がエンジン火災を起こして失われました。八九式中戦車甲は搭載したガソリンエンジンの炎上事故が多かったようです。
 6月4日、最後の1両となった中隊は、バヨンボン南方7~8km付近の国道5号がマガット川支流を渡る橋を前に、カーブと丘で遮蔽された陣を敷きます。段列要員らも爆雷を抱えてたこつぼに潜みました。
 午前10時ころ(日付不明)にM4中戦車複数と随伴歩兵が出現し、戦闘が始まります。そして、斥候に発見されて当初の計画よりも遠距離での交戦となってしまったものの、先頭のM4中戦車を首尾よく走行不能にできたため、撃退に成功しました。中隊は反撃の砲爆撃を受ける前に撤退することを決め、主砲の復座器が銃弾で破壊された八九式中戦車はダイナマイトで爆破処分されました。なお、この戦闘については、同人誌「J-Tank」第3号に収録の鉄獅子「奮戦、独立戦車第八中隊! 八九式中戦車、M4ヲ撃破ス!」に詳らかです。
 アメリカ軍の記録を見ると、交戦した相手は第37歩兵師団の第129歩兵連隊戦闘団で、M4中戦車は第775戦車大隊の所属と思われます。米陸軍公刊戦史は、6月1~4日にアリタオで戦車第2師団の生き残りである戦車撃滅隊を撃破した後、バンバンを無血占領、6月7日にバヨンボンを制圧するまではバト橋(Bato Bridge)で形ばかりの抵抗を受けたことにしか言及しません(注8)。バト橋はマガット川本流に架かっているのですが、唯一の抵抗という状況から、ひとまず独立戦車第8中隊のことと推定します。
 こうしてすべての戦車を失った独立戦車第8中隊は、戦車から下ろした車載機銃などを武器に歩兵として戦い、終戦までをルソン北部の中央山地で過ごしました。(その4へ続く

注記
1 第105師団兵器部にいた村田三郎平は、もともと戦車部隊出身の技術将校です。そのためか回想記の「最前線爆雷製造部隊」には戦車に関する記述が豊富です。村田は、その後に戦車第2師団整備隊へ転属し、戦車砲改造山砲や戦車用トレーラーなど応急兵器製造に活躍しています。

2 丹波五郎「父のフィリピン戦記」(杉並けやき出版、2004年)・48頁。この経理部士官は、1945年3月頃にサンタルシアへ米の収穫に出かけた際、独立戦車第8中隊と再会したことも手記に記録しています。

3 藤田相吉「秘録ルソンの苦闘」(蛍光社、1963年)・413-415頁。

4 ナガ残留組の行動に関しては、該当可能性のある回想録が存在します。川又照市「分捕りM4戦車の比島疾駆行」(「丸」エキストラ版第30集、1973年)がそれです。著者の所属部隊は、本文頁で「撃戦車兵団」(戦車第2師団)の「田村中隊」とありますが、目次頁では「第一〇五師団戦車隊」となっています。当初は八九式中戦車12両装備で戦闘時の稼働車5両、ルソン島ラグナ湖(バエ湖)畔・タナイ付近で戦闘といった内容からすると、独立戦車第8中隊のナガ残留組が最も整合的と考えます。
 同回想によると、M4中戦車を八九式中戦車で滅多撃ちして降伏に追い込み、友軍の誤射を受けながら本部へ持ち帰ったと言います。あまりに変わった戦闘内容、所属部隊が目次と本文で異なる、台湾沖航空戦の大本営発表(1944年10月)と同時期に戦闘したというありえない記述など信用性に疑いの残る文章ですが、事実なら興味深い話です。時期的におかしい台湾沖航空戦の大本営発表という点は、ラグナ湖付近で戦闘中の1945年4月にあった菊水作戦の大本営発表との混同と考えれば説明がつきます。

追記(2016年12月29日)
注4の戦記ですが、部隊史やその付属名簿と照らすと該当する人名が全く無く、残念ながらフィクションの可能性が高いように思われます。第105師団や田村中隊といった固有名詞の選び方は、案外、注1の第105師団兵器部の村田三郎平が著者ではないかという気もしますが、積極的な根拠はありません。

5 また、同じくナガ残留組の生存者とも思える方が、長崎新聞の記事に紹介されています。日中戦争中に久留米の戦車第1連隊に入営した戦車兵の方で、太平洋戦争終戦時にはルソン島アンティポロにいたとあります。終戦頃にはわずかな手榴弾と爆薬で夜間切り込みをしていたそうです。独立戦車第8中隊は兵庫県青野ヶ原の戦車第19連隊で編成された部隊ですが、独立戦車第11中隊・第12中隊が久留米の戦車第18連隊編成の部隊で、本文のとおり海没後の再編成で独立戦車第8中隊に送られた人員もあり、久留米の人が混じっていてもおかしくはありません。「戦争を語る:後方支援は戦争加担―日中戦争、太平洋戦争に従軍した高松高雄さん(86)=佐世保市松瀬町=」(長崎新聞、2003年8月16日)

6 Smith, p.169.

7 細田資料による。ただし、米軍記録によると、1月31日にはバロク三叉路を含むムニョス以南の5号国道はアメリカ軍の占領済みとなっており、日付または地点が若干異なっている可能性がある。

8 Smith, pp.562~563.

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その2)

3.独立中隊の挽歌(承前)

 1944年12月、レイテ島の戦いにおける日本軍の敗北が明らかとなり、ルソン島の第14方面軍は島内を「尚武」「振武」「建武」の3集団で分担する三大拠点構想に基づく防衛体制へ移行します。
 岩下戦車中隊(旧独立戦車第8中隊)は建武集団へ区処されました。建武集団はマニラ北西・ピナツボ山東一帯に広がるクラーク飛行場地区の守備隊です。総兵力は約3万人ありましたが、その半数以上は海軍兵、陸軍兵もほとんどが航空隊の地上組織であったため極めて弱体でした。まともな陸戦能力を有するのは、建武集団長を務める塚田理喜智中将(第1挺進集団長=空挺師団長兼務)の旗本というべき滑空歩兵第2連隊(グライダー空挺部隊)の750人と、北上した戦車第2師団の置き土産である機動歩兵第2連隊主力の1700人程度で、あとは基地警備用の飛行場大隊が第一線を張らねばならない状況。その中で、岩下戦車中隊は、仮編独立自走砲中隊(長:鷲見文男中尉)の四式15cm自走砲2門とともに貴重な機甲戦力といえます(注1)。

kenbu_group.png 1945年1月7日にアメリカ軍はルソン島リンガエン湾に上陸。対する建武集団は、リンガエン湾からマニラへ向かって南下してくるアメリカ軍を側撃する構えで、ピナツボ山を背に南北に連なる防衛陣を築きます。塚田集団長の命じた配備では、左翼に機動歩兵第2連隊主力を基幹とする高山地区隊(機動歩兵大隊1個・飛行場大隊2個ほか)、中央にはストッチェンバーグ飛行場を抑えた江口地区隊(飛行場大隊5個・仮編独立自走砲中隊ほか)、右翼へ少し離れたアンヘレス(Angeles)飛行場には江口隊を側面援護するため柳本地区隊(機動歩兵大隊1個・岩下戦車中隊)が並び、滑空歩兵と海軍陸戦隊700人を予備として控置、残余は後方の複郭陣地となっていました(注2)。
 アメリカ陸軍は第14軍団(第37・第40歩兵師団基幹)をクラーク地区へ侵攻させます。2個の米軍師団は各1個の戦車大隊と戦車駆逐大隊に支援されていました。1月20日、北方のタルラックに出ていた高山地区隊の警戒部隊2個中隊は、飛行場を破壊して主力に合流。1月23日に高山地区隊の最左翼で交戦が始まります。
 柳本地区隊はアンヘレス北東10kmのマガラン(Magalang)方面に出撃して、1月24日に米軍左翼の第37歩兵師団を攻撃しつつアンヘレスへ帰還。第37歩兵師団の支援を担当していた第637戦車駆逐大隊(注3)の記録によると、24日16時ころにサン・ロケ(San Roque)西方で第37歩兵師団の偵察隊が日本戦車2両に襲われて被害を受けており、おそらく岩下戦車中隊の戦果と思われます。同大隊ではM18戦車駆逐車1個小隊を救援に出動させたものの、このときは空振りに終わって、遺棄されたジープ3両と負傷者を収容して引き揚げています(注4)。
 彼我の戦力差は著しく、日本軍は次々と拠点を失います。1月27日にアンヘレス北方のダウもアメリカ軍が占領。柳本地区隊はダウのアメリカ軍砲兵を一撃したうえ、アンヘレスを放棄して江口地区隊へ合流しました。岩下戦車中隊もダウでの戦闘に参加しており、アメリカ軍第37歩兵師団の第145歩兵連隊と交戦したようです。
 なお、同じ1月27日には鷲見独立自走砲中隊もアメリカ軍戦車隊と初めて対戦し、300m以内の至近距離からの砲撃と陣地転換を繰り返す戦術で戦っています。すぐに反撃を受けるため、1箇所では2発までしか砲撃できなかったそうです(注5)。鷲見隊長以下負傷者が生じました。

 ダウとアンヘレスを占領したアメリカ軍第37歩兵師団は、ストッチェンバーグ基地に向かった正面攻撃を開始します。1月29日、第37歩兵師団のクラーク第4滑走路(マルコット飛行場)侵入を受けて、江口地区隊長は岩下戦車中隊による反撃と鷲見自走砲中隊による援護射撃を命じました。
 夕刻、岩下戦車中隊は8両の戦車全力を岩下大尉が率いて出撃します。鷲見自走砲中隊は1.5kmほどの比較的近い距離にいて援護射撃を試みたものの、無線連絡が通じず、爆煙で視界も悪いため、十分な支援は困難でした。
 1月29日16時45分ころ、岩下中隊は、マルコット飛行場に展開したアメリカ軍第37師団第129歩兵連隊の第3大隊へ突入します。第37歩兵師団の支援には、第754戦車大隊のM4中戦車と第637戦車駆逐大隊(注3)のM18戦車駆逐車が配属されていました。しかし、このとき日本側にとって幸運なことに第754戦車大隊は補給のため後方に下がって不在でした。代わりに居合わせたM7/105mm自走砲1門が立ち向かったものの、岩下中隊の47mm戦車砲弾によりたちまち乗員の大半もろとも葬られてしまいます。
 17時ころ、通報を受けて、第3大隊へ配属中の第637戦車駆逐大隊A中隊第1小隊のM18戦車駆逐車4両が急行します。ここでもアメリカ側にとって不運なことに同小隊長は敵陣偵察へ出かけて不在で、先任軍曹が指揮を執っていました。駆逐戦車隊と岩下戦車中隊は、互いに相手を左に見た位置関係で出くわし、行軍縦列のまま散開する間もなく激しい戦闘に突入したようです。夕闇と爆煙で視界が効かず、至近距離に近づくまで気づかなかったのではないでしょうか。おそらく一瞬の交戦で、日本側の九七式中戦車は4両が並んだまま撃ち抜かれ炎上(下画像)、アメリカ側はM18戦車駆逐車1両が完全破壊されました。M18戦車駆逐車は強力な76.2mm砲を載せた車両ですが、最大装甲25mmと薄かったため、日本戦車にとってはM4中戦車よりも与し易い相手だったものと思われます。その割に1両しか撃破できなかったのは、装甲の厚いM4中戦車と判断して1両を集中射撃したためかもしれません。
clarkfield1945.jpg

 鷲見自走砲中隊の援護射撃を受けて、岩下中隊の生き残りは撤退しました。生還した九七式中戦車は3両で、M18に撃破された4両以外の1両の喪失原因が不明です。陣地にたどり着いた兵は35人だけで、岩下大尉も戻りませんでした。
 アメリカ側は上記の1両完全喪失に加えて、別に1両のM18戦車駆逐車がMortar(臼砲・迫撃砲)の砲火によって損傷したと記録しており、鷲見自走砲中隊の戦果だろうと推定します。M18の乗員は5人戦死・6人負傷。日本側ではM4中戦車7両以上擱座と戦果報告したようですが、外形の似たM18戦車駆逐車の誤認や、視界不良による友軍戦車残骸の誤認が混じっているものと思われます。
 なお、補給を終えたM4中戦車3両が戻ってきたのは、日本戦車が去った後でした。第129歩兵連隊の第3大隊長は、M4中戦車が砲撃を避けて隠れていたと不満を言っています。もしこれが真相であれば、鷲見自走砲中隊の支援砲火が見事に効果を発揮していたといえるのではないかとも思えます。

 こうして1月29日の反撃も功を奏さず、翌日にストッチェンバーグ飛行場は陥落。以後は、複郭陣地へ後退しての持久戦闘へ徐々に移行します。建武集団を押し込めたアメリカ軍第14軍団は、掃討戦を後続部隊に委ねてマニラへと進撃を続けました。
 岩下戦車中隊のその後の戦闘の詳細はわかりませんが、鷲見自走砲中隊が車両を失って山中へ入ったのと同様に、車両を撃破されるか破壊処理した後に複郭陣地へ後退したものと思われます。岩下戦車中隊の総兵力129人のうち、終戦まで生き残ったのは16人だけでした。(その3へ続く

注記
1 仮編独立自走砲中隊は、もとは第1自走砲中隊と称した部隊で、ルソン島への揚陸中の空襲により損害を受けたため残存装備・人員を仮に再編成したもの。敷波迪「日本軍機甲部隊の編成・装備」1巻によると1944年12月8日の発令では四式15cm自走砲4門と装甲兵車8両を装備するはずだったが、調達が間に合わなかったためか実際の配備数は3門のようで、しかもうち1門は輸送船「青葉山丸」とともに海没した。このほかの建武集団の機甲戦力として、機動歩兵第2連隊は軽装甲車や装甲兵車若干を保有していた可能性がありそうだが詳細不明。

2 各地区隊の呼称は指揮官苗字で、高山地区隊:高山好信中佐(機動歩兵第2連隊長)、江口地区隊:江口清助中佐(第10航空地区司令官)、柳本地区隊:柳本貴教少佐(機動歩兵第2連隊第3大隊長)。

3 第637戦車駆逐大隊は、フィリピン反攻作戦のためフィジー駐屯部隊から転出してきた部隊。編制は本部中隊・偵察中隊・A~C中隊(一般中隊)・衛生班から成る。主力装備は動員に際してM18戦車駆逐車36両へ更新され、偵察中隊にはM5A1軽戦車とM8装輪装甲車が配備されていた。

4 1月24日以前の1月21日夜にも、タルラック東方のラ・パス(La Paz)で戦車1両に支援された日本軍1個小隊が出現し、アメリカ軍の第148歩兵連隊を襲って橋を破壊して去った戦闘がアメリカ陸軍公刊戦史に記録されている(Smith, p.169)。これは次回述べるように独立戦車第8中隊(旧第9中隊)の可能性が高い。

5 佐山「機甲入門」・291-292頁。
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