山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

第4611船団の疎開民間人

 ツイッターでもつぶやいたのですが、太平洋戦争中に米軍上陸直前のサイパン島から脱出しようとした日本の第4611船団という護送船団に、民間人の疎開者多数が乗船していたという話を見かけて気になりました。なので、とりあえずメモ書きとしてまとめておくことにします。

 見かけた話というのは、NHKの戦争証言アーカイブスに収録の石黒隆一「サイパン沖で沈んだ疎開者輸送船団の悲劇」です。著者は海軍一等兵曹で、ブーゲンビル島から内地へ転勤途中に、経由地のサイパン島から船団護衛艦の「第八拓南丸」に便乗したという方。「サイパンも戦局急を告げ、疎開学童を含む婦女子、3、4000人が内地に引き揚げることになった。(引用中略)婦女子は輸送船バタビア丸、門司丸など15隻へと分乗した。」とあります。沖縄戦の「対馬丸事件をはるかに超える大惨事」と。
 この船団は、1944年6月11日にサイパンから横須賀方面に出航した第4611船団(Wikipedia)のことと思われます。加入輸送船は「ばたびあ丸」「門司丸」など海軍徴用船12隻と陸軍徴用船1隻で、護衛は水雷艇「鴻」以下10隻でした。米軍第58機動部隊がサイパン攻略の事前空襲で来攻したため、サイパンに在泊中の艦船を退避させるため編成されましたが、上記石黒回想のとおり、米軍機動部隊に捕捉されて空襲と水上戦闘で壊滅しました。なお、上記石黒回想で司令官が高橋少将となっているのは、手紙の画像を見ると、同じく護衛部隊の第51号駆潜艇に乗艦していた方の話に基づくようですが、おそらく後に護衛した第4804船団(硫黄島から内地に航行中に米軍機動部隊と交戦。)で駆逐艦「松」に座乗していた高橋一松少将のことと記憶が混交しているものと思われます。

 さて、第4611船団は上記のように船舶保護が主目的だったので、私は、疎開する民間人はあまり便乗していなかったのではないかと思い込んでいました。なお、第4611船団の編成時点では、日本側はサイパンの攻略が直ちに始まるとまでは確信しておらず、とりあえず空襲から船舶を避難させようという認識だったようです。
 当時のサイパン島では、米軍上陸に備えて、民間居留民などの非戦闘員の本土疎開が推進されていました。民間航路の貨客船に乗せたり、増援部隊を運んだ輸送船の帰路に便乗させたりしていましたが、「亜米利加丸」(Wikpedia)や「白山丸」(Wikipedia)などが撃沈されて数百人単位の死者が出ていました。

 第4611船団の加入船を見てみると、「ばたびあ丸」や「門司丸」辺りは前者約180人、後者約80人ともともと相当の旅客設備を持っていたようですが、ほかは貨物船が多いようです。ただし、当時は兵員輸送用の軍隊輸送船として改装された貨物船が多く、貨物船でも人員輸送に使われた可能性はあります。「門司丸」も本来の旅客設備に加えて、船倉までいわゆる蚕棚式の寝台を組んで、初期の南方作戦では南海支隊の砲兵900人を運んだ実績があるとのこと。
 とりあえず、加入船についての文献を適当に当たってみたところ、以下の3隻にはサイパンから本土疎開する居留民が乗船していた可能性があると思われます。
batabiamaru.jpg
 「ばたびあ丸」(大阪商船・4392総トン):便乗者140人中18人死亡(駒宮『戦時船舶史』205頁)。画像は沈没しつつある同船ですが退船完了後か。
 「麗海丸」(東亜海運・2812総トン):邦人42人死亡(駒宮『戦時船舶史』266頁)
 「門司丸」(日本郵船・3836総トン):不明。『日本郵船戦時船史』では便乗者約1000人とありますが(上・713頁)、主にトラック島で収容した「海軍特殊設営隊」800人のようで(上・716頁)、サイパン島では同じ日本郵船所属の「高岡丸」(サイパン沖で6月5日被雷沈没)の遭難船員59人を追加乗船させたものの(上・700頁)、一般疎開者が乗っていたとは確認できませんでした。特殊設営隊の正体は未調査ですが、建設要員として使役されていた囚人部隊ではないかと思います。 なお、「ばたびあ丸」が撃沈された際、生存者の一部は「門司丸」に救助されたため、一時的に疎開民間人が「門司丸」に乗ったのは間違いないようです。

 加入船のうちで民間人の移動に最も適していたと思われる「ばたびあ丸」の便乗者が140人にとどまり、どうも全船に疎開者が乗っていたわけでもないことを考えると、上記石黒回想のサイパンからの疎開者3000~4000人乗船(商船1隻あたり婦女子300~350人×隻数、護衛艦1隻あたり70~80人×隻数)という推定は過大と思います。
 乗船中の疎開者の犠牲者数も、上記のとおり、「ばたびあ丸」18人と「麗海丸」42人という以上の資料がまだ確認できません。「ばたびあ丸」生存者の多くは「門司丸」に救助されたようですが、「門司丸」も本土行を断念してサイパンに戻り、米軍の艦砲射撃で撃沈されたため、最終的には乗船者のほとんどが死亡されたのではないかと思います。
 一部の方だけは「門司丸」沈没時に米軍艦艇に救助されて、ハワイなどの収容所に送られて生還という幸運な経過を辿っています。冒頭の石黒回想でも4人の方の名前が挙げられており、戦没した船と海員の資料館研究員の上澤祥昭の講演でも事例が紹介されています(『逗子ロータリークラブWeekly Report』2010-2011・34号(PDF))。陸上に逃れられた方があったのか不明ですが、「門司丸」船員や便乗中の「高岡丸」船員の場合、洋上で米軍捕虜になった方(「門司丸」7人・「高岡丸」4人)以外は生還者がなく、生存可能性は乏しいと思われます。

 戦場で民間人保護がどのように行われたのかという問題の参考事例として、もう少し掘り下げてみたい気もします。

参考文献
石黒隆一「サイパン沖で沈んだ疎開者輸送船団の悲劇」『NHK戦争証言アーカイブス』日本放送協会ウェブサイト
駒宮真七郎『戦時船舶史』駒宮真七郎、1991年
日本郵船株式会社『日本郵船戦時船史』上巻、日本郵船、1971年
防衛庁防衛研修所戦史室『マリアナ沖海戦』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1968年

謝辞
 ツイッターで助言を頂いた、天翔艦隊管理人様にお礼を申し上げます。

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その4)

3.独立中隊の挽歌(承前)

Luzonmap.png ルソン島に展開した残る一つの独立戦車中隊である独立戦車第9中隊(旧独立戦車第11中隊)は、1944年11月にルソン島北部のエチアゲやツゲガラオに進出して飛行場整備に従事していましたが、翌1945年1月の米軍上陸と同時期に、既述の通り、北部の第103師団(駿兵団)に配属されました。なお、同師団指揮下の機甲戦力としては外に、戦車第2師団の各隊から集成した津守独立戦車中隊(軽戦車12~15両・装甲兵車2両)と、第103師団特種戦車隊(鹵獲M3軽戦車)及び第103師団砲兵隊自走砲中隊(鹵獲M3自走砲)がありました。
 第103師団の任務は、ルソン島北端のアパリに上陸することが想定される米軍、及び、ルソン島北部カガヤン平野に降下するおそれのある米軍空挺部隊の迎撃でした。独立戦車第9中隊はアパリへの米軍上陸に備えて、その内陸15kmのラローに駐屯しました。燃料のガソリンが不足してきたため、中隊長の中島保男中尉は、戦車をトーチカ化することも考え始めていたと回想しています。同様に第103師団に配属された津守独立戦車中隊は、主に空挺部隊に対する反撃戦力として期待され、海岸から少し離れた林の中に壕を掘って陣地を構成していました。
 この頃、付近に居た第103師団砲兵隊の自走砲中隊は、独立戦車第9中隊によって車両整備の援助を受けていたようです。第103師団砲兵隊にいた山本七平少尉は、独立戦車第9中隊と思われる近所の戦車隊について、軍神西住戦車長が乗っていたのと同じ八九式中戦車装備で、日本軍では珍しいガソリンエンジンの骨董品のスクラップ部隊、修理班の軍曹が「わが隊は修理班に関する限り日本一デッセ、何しろ廃品が動いちょりますからなあ」と自嘲していたと紹介しています(注1)。

 さて、1945年1月のルソン島リンガエン湾への米軍上陸後も、第103師団はルソン島北部から動きませんでした。北部に米軍別働隊が上陸・空挺降下して、リンガエン湾から北上する米軍主力と挟み撃ちにされることを警戒したものと思われます。
 しかし、4月中旬に米軍によりサラクサク峠・バレテ峠の防衛線が浸食され、米軍がカガヤン平野へ北上する危険が高まると、ついに第103師団にも南下してバレテ峠で米軍を阻止するよう命令が下りました(4月27日:尚武作命甲第690号)。一部だけが湯口支隊としてアパリに残置されます。
 このとき、独立戦車第9中隊もバレテ峠救援のため国道5号を南進することになりますが、独立戦車第9中隊は第103師団への配属を解かれて、独立速射砲第18大隊や野砲兵第22連隊第3大隊(注2)などとともに第14方面軍直轄に移されます。戦車第2師団主力が壊滅した当時となっては、貴重な機甲戦力として期待されたものと思われます。5月初めの第14方面軍の計画では、独立戦車第9中隊と独立速射砲第18大隊主力、それに工兵1個中隊をもって軍特殊作業隊を編成し、バレテ峠北のサンタフェ=バンバン間の橋梁破壊と対戦車戦闘に当てる予定でした。
 4月30日に独立戦車第9中隊は行動開始したようですが、燃料不足のため全戦車を移動させることはできず、小野見習士官(後に少尉)を小隊長とする第3小隊と病兵をラローに残置しました。中隊はその後も燃料不足に悩まされて、ツゲガラオに第2小隊をも残置し、中隊主力は中隊長車と第1小隊主力(2両)と自動貨車1両だけにやせ細ります。なお、第103師団全体も同様に輸送力不足のため行軍中に隷下部隊が細切れになってしまい、後に北上してきた米軍部隊と遭遇して各個撃破される結果になりました。
 独立戦車第9中隊主力は空襲を警戒して夜間行軍を続け、イラガン北方付近に到達します。到達時期は不明確ですが、戦友会報に載っている中隊長回想では6月上旬にイラガン北方3kmに進出とあります。中隊長回想によれば、マガット川に架かるイラガン北橋が米軍空襲で破壊されていたためそれ以上南下できず、イラガン北方で同地区警備担当の松井工兵隊の指揮下に入って布陣したといいます。南下開始時の目的地はバガバッグでしたが、同地はすでに米軍占領下でした。
 なお、津守独立戦車中隊の軽戦車12両も同様に夜間行軍主体で南下し、6月14日にカウアヤン付近まで進出後、米軍戦車隊を発見したため不利と判断して後退。しかし、イラガンの工兵橋を渡河しようとしたところ、橋が戦車の重量に耐えきれず崩落して軽戦車1両を失い、渡河を断念して国道5号を外れて川沿いの脇道に入った地点に布陣しました。第103師団の独歩第175大隊第2中隊が転進支援のため行動を共にしていたようです。

オリオン峠 対する米軍はバレテ峠を突破しており、第37歩兵師団先鋒の第145歩兵連隊戦闘団が6月10日にはオリオン峠に到達して、日本軍第103師団の第1梯団として急行してきた独立歩兵第179大隊と衝突します(画像はオリオン峠で交戦中の米軍部隊)。独歩第179大隊は峠脇の山地に入りつつ米軍側背を脅かして奮戦、米軍後続部隊の第148連隊戦闘団の車列に20両損傷の打撃を与えますが、6月14日にオリオン峠防衛線は崩壊。第103師団の主力部隊も国道5号を南下してきたままオリオン峠周辺の遭遇戦で粉砕され、6月16日にはカウアヤンも米軍の手に落ちました。

 独立戦車第9中隊主力は、戦史叢書によれば6月20日、イラガン北方13km付近で北上してきた米軍部隊を迎撃し、戦車を全て失いました。中隊の戦車3両は陣地に分散配置されたようで中隊長も戦場全体を把握できず、戦闘の詳細は不明ですが、第1小隊長車は直撃弾を受けて全員戦死したとの伝聞情報を紹介しています。6月19日から20日の戦闘による中隊の戦死者は26人と記録されています。
 津守独立戦車中隊の軽戦車11両も、ほぼ同時に近所で米軍戦車隊と交戦して、2両を残して全滅しました。残存車両も車載機銃だけ外して破壊処分したため、結局全損となっています。生存者の回想によると、津守中隊長は、この戦闘時に「独立戦車隊」に連絡に行っていて難を逃れたそうで(注3)、独戦第9中隊に連絡に行っていたのだと思われます。
 独戦第9中隊主力や津守独立戦車中隊と交戦したのは、米軍第37歩兵師団の第148歩兵連隊戦闘団でした。同戦闘団の第775戦車大隊B中隊第1小隊は、6月18日にイラガン南方2マイルの地点からサンアントニオ方面の側道に進撃中、日本戦車8両と交戦して全滅させたと記録しています。そのうち6両は、小隊付軍曹の戦車の戦果でした。戦車の数からすると日本側は独戦第9中隊ではなく津守独立戦車中隊と思われます。数では日本側が優っていたようですが、九五式軽戦車とM4中戦車では如何ともしがたい性能差がありました。第37歩兵師団は、6月19日から6月23日の国道5号北上中の一連の戦闘で、日本の軽戦車15~16両を撃破し、日本兵600人以上を殺害、285人の捕虜を獲得したと記録しており、戦車の撃破数は独立戦車第9中隊主力と津守独立戦車中隊の合計とほぼ一致します。

 生き残った独立戦車第9中隊長以下の主力約40人は徒歩でイラガン東方山中に退避して、松井部隊との合流を図るうちに終戦を迎えました。ラローやツゲガラオに残置された人員の行動の詳細も調査未了ですが、6月23日と6月30日にツゲガラオや東方海岸で計19人の戦死が記録されており、第2小隊はこの頃に米軍部隊と交戦したのではないかと思われます。
 独立戦車第9中隊の総兵力131~139人のうち、終戦後の生還者は73~76人と記録されています。後方待機期間が長く、直接の地上戦闘に関わった時期が短かっため、悲島と呼ばれたフィリピン戦線としては比較的生存者の多い部隊といえるでしょう。

 なお、以上は主に中隊長回想によった経過ですが、これとは別に第三者の目撃談として、独立戦車第9中隊主力が壊滅する直前の1944年6月14日、マガット川南岸カバツアンCabatuan(原文「カバナツアン」ですが、ヌエバ・エシハ州のカバナツアンのことではなくイサベラ州カバツアンの誤記と思われます。)の渡し場で独立戦車第9中隊を見かけたとの回想があります(注4)。
 この回想によると、6月14日、北部ルソンの山中に撤退する第2航空通信団司令部改編の臨時独立第2歩兵団司令部がカバツアンにいたところ、装軌車両の音がして敵戦車かと驚いたら、現れたのが独戦第9中隊の中戦車2両だったといいます。戦車隊の指揮官が、臨時独立第2歩兵団の中島参謀と打ち合わせの後、2両はサンチャゴやオリオン峠のある南へ走り去りました。まだ若い戦車兵らは、軍属の筆者が砂糖の塊を差し出すと受け取ってポケットに仕舞い、丁寧に敬礼したそうです。その後、伝令が届けてきた通信文によると、独立戦車第9中隊の2両の戦車は、大元大尉の野砲とともに敵戦車3両に損害を与えたものの、戦車と航空機の攻撃を受けて全滅したらしいとなっています。大元砲兵隊は第105師団砲兵隊の一部のようです。
 中隊長回想とは少し内容が異なるのですが、全体として詳細な内容の回想である上、かなり具体的であるため、それなりに信用できる情報として検証する価値があるように思われます。そこで、とりあえず参考としてご紹介するものです。(この章終わり


注記
1 山本七平 『私の中の日本軍(上)』 文藝春秋〈文春文庫〉、1983年、297頁。

2 野砲兵第22連隊は第16師団の師団砲兵で、師団主力とともにレイテ島で全滅しましたが、第3大隊(10㎝榴弾砲)は捜索第16連隊などとともにルソン島に取り残されていました。第103師団から転進援助のため独歩第175大隊第4中隊などをもらって南進しようとしましたが、馬匹不足やゲリラによる道路破壊で行動が遅れてバレテ峠にもオリオン峠にも間に合わず、最終的に湯口支隊の指揮下に入れられています。

3 弓井崇弘 「末期フィリピンの戦車隊で生き残る」『平和の礎-軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)』 第2巻、平和祈念事業特別基金、1992年。

4 須藤久男 「極限の戦場ルソンに生きる―戦史になき航空通信団司令部の戦闘全報告」『わが戦車隊ルソンに消えるとも』 潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2014年。初出は『丸』昭和54年5月号。著者の旧姓:市川、将校待遇の軍属か。

蜘蛛の古巣を払いて

やや年も暮れ

今年の抱負

去年1年でわずか1本しか記事を書いていないという怠けっぷりなので、今年は倍増させたいです。

日本の戦時商船塗装がカウンターシェイド迷彩であったことを示す史料

1 日本商船の大戦後期仕様迷彩
外舷2号色系迷彩 太平洋戦争後期、日本商船の多くは緑色の迷彩塗装を施されていました。いわゆる外舷2号色系迷彩というもの。

 当時の日本では、有事の商船保護のため船舶保護法(昭和16年法律第74号)という法律があり、その第3条1項が、「命令」(注1)の定めるところにより、海軍大臣(またはその委任を受けた海務院長官(後に海運総局長官))が船主等に対して戦時に船の設備について必要な指示を出す権限を与えていました。この条項にいう「命令」としては船舶保護法及関東州及南洋群島船舶保護令施行規則(注2)が制定されており、その第5条で海務院長官(後に海運総局長官)が船舶保護法3条の規定により運航業者や船主に船舶の自衛設備などに必要な指示を出せることになっていました。
 件の緑色の商船迷彩も、この船舶保護法に基づく海運総局長官の船舶保護指示第29号(注3)として定められたものです。なお、この緑色の外舷2号色系迷彩が採用される以前には、「防空鼠色」(外舷1号色系迷彩とも)という紺青顔料の入った青みがかった灰色が使われていました。

SS_TatsuyouMaru.jpg 外舷2号色系迷彩はおおむね右上のイラストのような塗り分けになります。その下の画像は2A型戦標船の実物写真(注4)で、白黒写真ですが、実際に舷側が塗り分けされていることが判ります。ただし、水線部の塗装は指示通りに実施されたのか疑問もあるようです。2号色水線塗料は「赤色水線塗料の代用品」と書いてあり、既存の赤色水線塗料が調達できるかぎりはそちらを使い続けていたのかもしれません。

2 理論的根拠についての仮説
 右上イラストのように船体の船首尾部分を舷側中央より明るめの色とする迷彩塗装について、何か理論的根拠があったのでしょうか。
 この点について、『モデルアート5月号臨時増刊―軍艦の塗装』(以下『軍艦の塗装』)では、船体を小型に見せかけて距離測定を誤らせる狙いだったようだとしています(加藤、8頁)。同書は、米海軍のメジャー8系迷彩(巡洋艦の船体の一部を明るい灰色に塗り分けて駆逐艦に見せかける方式)に似た方式と述べます。
 一方、岩重多四郎が、カウンターシェイド迷彩の理論に基づいているとの仮説を提示していましたが、「根拠資料は今のところ見つかっていない」として裏付け史料は未確認でした(岩重、24頁)。カウンターシェイド迷彩というのは、物体の陰影が付く部分を明るい色に、逆に陰影の付かない部分を暗い色に塗ることで、見かけの明暗差を無くして目立たなく背景に溶けこみやすくなるという発想の迷彩塗装です(注5)。

3 海軍航海学校における研究報告書
 気になってアジア歴史資料センター(JACAR)でウェブ公開された史料を調べたところ、この外舷2号色系迷彩がカウンターシェイド迷彩の理論に基いて制定されたことを示す記述を、海軍航海学校 『研究実験成績報告 第 号(船舶迷彩研究実験)』 という史料(以下「本件報告書」。注6)の中に確認することができました。

 この史料は、1943年4月2日付の海軍大臣訓令(注7)にもとづき、同年4月~7月に日本海軍の海軍航海学校で行われた迷彩塗装に関する研究の報告書です。ただし、現時点でアジ歴に公開されているのは、その報告書を陸軍の第三陸軍技術研究所が陸軍船舶の迷彩塗装研究の参考資料として入手した写しです。そのため、原本にある色見本が省略されている難点があります。
 この海軍航海学校における迷彩塗装に関する研究の存在自体は、従前から知られており、例えば『軍艦の塗装』でも「昭和18年3月に横須賀の海軍航海学校に設置された対潜塗色の委員会」について言及があります(加藤、84頁)。
 船舶保護指示第29号の中で、外舷2号色系迷彩は海軍航海学校の研究により夜間に有効な迷彩と判定されたことが説明されており、本件報告書が制定の基礎資料になっていることが窺えます。

 その研究内容としては、1943年4月2日の海軍大臣訓令にもとづき、日本近海での対潜自衛を主眼に、(1)視認を困難にする迷彩、(2)方位角判定を困難にする迷彩、(3)速力判定を困難にする迷彩の3項目がテーマになっていました。
 横須賀鎮守府に呉鎮守府が協力する建前で、実質は横須賀の海軍航海学校を中心とした委員会(委員長:三川軍一海軍航海学校長)が設置され、航海学校や機雷学校などの実施学校や在勤武官・防備隊などの護衛部門などの海軍士官多数のほか、船舶運営会や日本郵船関係者も若干参加しています。
相良丸 次のとおり実船に迷彩塗装をして比較し、潜水艦や航空機を使って観測するかなりの規模の実験が行われています。実験に先立つ予備調査では、ドイツ商船の「リオ・グランデ Rio Grande」や、特設運送艦「相良丸」(右画像)も観察対象になっています。この「相良丸」には、戦後に著名となる福井静夫技術少佐考案の特徴的なダズル迷彩が施されていました(注8)。

 5月26日(予備実験):駆逐艦「葦」(右舷1号色・左舷2号色)、「楡」(右舷3号色・左舷4号色)
 6月3日(第1回実験):第7603船団(横浜→神戸)加入の「昭宝丸」(1号色)、「清洲丸」(2号色)、
    「五星丸」(3号色)、「親和丸」(4号色:舞廠式塗粧、注9)、「諾威丸」(5号色:ドイツ船式)
 6月24日(第2回実験):第1624船団(横浜→釧路)加入の「弘和丸」(2号色系塗り分け)、
    「大成丸」(5号色系塗り分け)、「乾瑞丸」(鼠色)

 本件報告書冒頭の成果概要を見ると、「(ニ)上部構造物及び船首尾は陰影を消去する為、淡色とするを要し、二一号色、五一号色を可とす」(原文カナ。送り仮名・読点を補う。)と書かれており、外舷2号色系迷彩において船首尾に明るい21号色塗料が採用された理由がカウンターシェイド迷彩であったことがわかります。
 このほか、マストの頂部を淡色とすべきこと、沿岸航行で陸地が背景の場合に2号色系が有効なこと、迷彩により方位角・速度判定を妨げるのは困難という意見が出てこの目的に有効な塗装案に至らなかったことなども記されております。なお、塗装関係以外に、方位角判定を困難にするために鳥居形のデリックポストは避け、単脚マストにすべきことや、前後のマストを中心線から左右に振り分けて設置すべきこと、迷彩だけでは視認防止が不十分なのでマストの短縮が急務であることなども指摘されています。

 本件報告書は、外舷2号色系迷彩がカウンターシェイド迷彩であったことを裏付ける史料というだけでなく、米英海軍に比べて体系的でなかったと言われる日本海軍の船舶用迷彩研究について、実際のところ、どの程度の研究がされていたのか伺われる史料として興味深いものと思います。なお、本件報告書には、日本海軍の空母に外舷2号色系迷彩類似の緑色迷彩が適用された理由については直接触れられていないため、その点はさらに調査が必要なところと思います。

注記
1. ここでいう「命令」とは、個別的ないわゆる命令の意味ではなく法令の形式の分類で、国会の議決による「法律」以外の行政機関が定める法令の総称。「政令」や「省令」の類のこと。

2. 施行規則の名称が長いのは、船舶保護法を関東州などの船籍船につき準用した関東州及南洋群島船舶保護令(昭和16年勅令第458号)の施行規則も兼ねているため。

3. 「船舶保護資料第18号」『昭和十九年度 船舶保護資料綴』 1944年、JACAR Ref.C08050094900、画像14枚目。

4. 出典:「中国軍艦史月刊」>「台湾海域日本沈没船艦紀録」によると「辰洋丸」(辰馬汽船、6892総トン)。

5. カウンターシェイド迷彩については「岩重輸送船団史」>「塗装ガイド」にイラスト付きの解説あり。

6. 海軍航海学校 『研究実験成績報告 第 号(船舶迷彩研究実験)』 1943年、JACAR Ref.C14020256800

7. 海軍大臣 「船舶ノ迷彩ニ関スル実験研究ノ件訓令」 (昭和18年4月2日官房備機密第117号)

8. 「相良丸」の迷彩について、福井本人によれば、塗装をしたシンガポール現地では「他の艦船に比して著しく効果が大である」と好評だったそうです(福井静夫 『日本特設艦船物語』 、光人社、2001年、190頁)。そのため、研究対象に選ばれたのかもしれません。もっとも、本件報告書では「相良丸に対する航海学校に於ける観測成績に依るも方位角並に速力判定を困難ならしむるに適当なる塗粧法に関しては結論に達せず」(原文カナ)とあり、顕著な効果は確認できなかったように思われます。

9. 舞鶴海軍工廠式の迷彩塗装と思われるが詳細不明。

参考文献
岩重多四郎 『戦時輸送船ビジュアルガイド―日の丸船隊ギャラリー』 大日本絵画、2009年。
加藤聡(編) 『モデルアート5月号臨時増刊―軍艦の塗装』 通巻第561集、モデルアート社、2000年。
 

末期戦グルメ

Palmito.jpg 太平洋戦争期の日本軍陸戦もの従軍記というと、後半は戦闘というよりサバイバル日記になってしまうことが多いです。
 食料集めの定番では、三八式歩兵銃で野豚や水牛を撃ったり、手榴弾を使った爆弾漁で魚を獲ったり、サツマイモを植えて芋が育つのを待ちきれず芋のツルや葉を煮たり、現地人の畑や家を荒らしたり。行き着く果ては「野火」の世界になってしまうわけですが。
 さて、その中で美味しいと評判が良いメニューに、椰子筍(やしだけ)があります。椰子の木の先端の成長点辺りの柔らかい部分の芯が、ちょうど筍のように柔らかくて、薄甘くて、汁の実に良し、生でもいけると不足がちな野菜代わりに食べられたようです。ただし、採取してしまうと椰子の木が枯れてしまうので、日本兵が椰子筍を食い荒らして、現地人の貴重な財産である椰子の木を枯らして恨まれることもよくあったとか。
 いろいろな本に出てくるのでどんな味か試してみたいと常々思っていたのですが、アマゾンで普通に売っていることを知りました。パルミット(Palmito)という名で、エスニック食材として一般的なものだそうですね。右の写真のとおり、収穫して加工してるようです。もしかしたら、知らずにすでに食べたことがあるのかもしれないと思いつつ、そんなに高くないのでそのうち買って食べてみようかしらと思います。調理法は、海水味の塩汁が末期戦の味として最もふさわしいのかなあ。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ、作者:Ricardo Eliezer de Souza e Silva Maas

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