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山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

ガダルカナル島のとある見張所の最期

 太平洋戦争のソロモン諸島方面の戦闘において、連合国側がコーストウォッチャーと呼ばれる監視員を各地に配置、有力な早期警戒網を構成していたことは知られるところです。
 もともとはオーストラリア海軍が第一次世界大戦後から整備を進めてきていたもので、1930年代に専門の海軍情報部長が設置されて本格化。太平洋戦争開戦直前の1941年半ばにはニューギニアやソロモン諸島等の100か所以上に無線通信機を装備したコーストウォッチャーが展開していました(ロード 31頁)。ソロモン諸島の場合、開戦前の時点でブーゲンビル島に2か所、ガダルカナル島に3か所、その他ツラギなど3か所の計8拠点が置かれています(ロード 34頁)。人員は、予備役軍人を含む現地在住の欧米系民間人が主体だったようです。
 ガダルカナル島攻防戦たけなわの頃、ラバウルからガダルカナル島に向けて日本軍の攻撃隊が離陸すると、途中のブーゲンビル島やニュージョージア島などのコーストウォッチャーが次々と無線で報告、防空レーダーの情報と合わせて、素早く迎撃態勢をとることができました。

 対する日本側も同じようなことを思いつかなかったかというとそんなわけはなく、日本海軍もソロモン諸島の各地を占領すると見張所という名で監視拠点を配置していきました。
ガダルカナル島見張所
 ガダルカナル島に米軍が上陸する前月の1942年7月16日時点で、図のとおり、ガダルカナル島内にはルンガ飛行場を囲むように東見張所(タイボ岬)・南見張所・西見張所(エスペランス岬)、南岸にハンター岬見張所、フロリダ島(ツラギ)やラッセル諸島等の周辺島嶼にも見張所が存在しました(南東方面海軍作戦(1) 385頁)。7月16日時点では予定となっているマライタ島やマラバ島の見張所も、アメリカ軍上陸時までには実際に配置が完了していました。
 この中でガダルカナル島内でも主戦場からポツンと離れ、オーストラリア側に最も近いのが南岸のハンター岬見張所です。人員9名(ただし最終時の連合国側の記録によると10名)、機銃2挺(?)と無線通信機装備という戦闘力はほとんどない「目」でした。通信機は短距離用の軽便無線機と思われ、基本的には長距離通信設備を有する北岸ルンガの海軍部隊本部との間の島内通信用でした。ただ、西見張所の通信機は後にショートランド島との間で交信に成功しており、ある程度は島外との交信も可能だったかもしれません。
 配置場所にハンター岬が選定された一因には、ガダルカナル島で布教活動をしていたオランダ人宣教師エメリー・ド・クラーク(Emery de Klerk)神父の助言があったようです。ガ島を占領した日本兵が1942年7月10日にクラーク神父を訪問して、南岸に監視拠点を置くのに適した場所がないか問うたところ、クラーク神父はハンター岬と答えたといいます(ロード 79頁)。

 1942年8月7日にアメリカ軍が、ガダルカナル島北岸ルンガとツラギに上陸して、ガダルカナル島の戦いが始まります。ルンガの第11設営隊以下の海軍部隊主力はひとたまりもなくジャングルに退避しましたが、各見張所はとりあえず攻撃を免れて健在でした。いきなり本部との交信が途絶して、見張所同士で不安の声を交わしていたようです(五味川 56~58頁)。
 その中でも南岸のハンター岬見張所は、8月7日朝にガダルカナル島南方洋上を行動中のアメリカ海軍空母部隊を発見することに成功します(南東方面海軍作戦(1) 457頁)。日本側にとって残念なことに、ハンター岬見張所の無線報告は、ルンガの海軍部隊主力が通信機を失って通信途絶したため受信されず、上級部隊にすぐに届きませんでした。この重要情報は、8月12日に連絡任務のためハンター岬沖に浮上した潜水艦「呂33」へ見張所長が赴いて報告され、艦載無線でようやく上級部隊に伝えられることになります(南太平洋陸軍作戦(1) 281頁)。
 ちなみに他の見張所も序盤の貴重な通信拠点として機能し、海軍部隊主力は、8月16日にエスペランス岬の西見張所の通信機を取り寄せて、潜水艦やショートランド基地経由の連絡を回復しています。8月18日に反撃部隊の一木支隊先遣隊が上陸したのも、タイボ岬の東見張所のそばで、同見張所の海軍兵3名が道案内として同行、同見張所が後に一木支隊の敗北の第一報を伝えています。海軍の増援通信部隊がエスペランス岬西のカミンボに上陸したのは9月7日で、それまでは見張所の無線機と増援第一陣の高橋陸戦隊(8月16日上陸)が持ち込んだ無線機が通信の要であったと思われます。

 もちろん、連合国軍が、そのまま日本軍の見張所を見逃すこともありませんでした。
 8月16日には、フロリダ島東端のイースト岬見張所(約12名)が敵軍上陸を報じた後、通信途絶し、玉砕と推定されます(南東方面海軍作戦(1) 533頁)。8月27日に潜水艦「伊123」がイースト岬へ連絡と食糧補給に向かいますが、実施できた記録は残っていません(南東方面海軍作戦(2) 63~64頁)。
 一木支隊が上陸したタイボ岬見張所付近には、その後に川口支隊主力なども上陸して揚陸拠点として活用されました。しかし、9月8日にアメリカ海兵隊が舟艇機動でタイボ岬へ侵攻、川口支隊の後方部隊を撃破しており、この時に見張所も壊滅したものと思われます。そもそも一木支隊先遣隊が上陸する前から、アメリカ軍はコーストウォッチャーの通報でタイボ岬に日本軍の通信拠点があるとの情報を得て掃討部隊を差し向けており、アメリカ軍が一木支隊の将校斥候を素早く一掃できたのもこの掃討部隊が臨戦態勢でちょうど付近にいたためのようです(Zimmerman pp.61~62)。

 空母発見で活躍したハンター岬見張所の最期については、連合国側に明確な記録を発見することができました。
 連合国側の記録によると、主戦線で日本軍第2師団が総攻撃を準備中の10月18日頃、一団の現地住民が、ハンター岬見張所を訪れて、タバコと食料の物々交換を申し出ました。そして、日本兵が豚肉の提供を求めると、島民たちは日本兵を野豚狩りに誘いました。しかし、これは罠でした。翌日、日本兵のうち8人が、槍で武装した現地住民とともに二手に分かれながらジャングルの道を出かけましたが、しばらく進んで川の分岐点に着いたところで、住民たちの槍で襲われて全員殺害されました(ヘイ 126~127頁)。住民たちは夕暮れを待って、見張所の留守番の日本兵も襲撃、1名を殺害しました。日本兵1名だけがジャングルに逃げ込んだようですが、そのまま行方不明となっています(ロード 106頁)。住民たちは小銃9挺を戦利品として奪い、機銃や通信機は破壊して海に投げ込み、建物を焼き払いました(ヘイ 126~127頁)。暗号書などを収集した様子はなく、連合国正規軍と連携した行動ではなかったことが伺えます。
 8月13日にハンター岬見張所から潜水艦「呂33」経由で送られた報告によると、ハンター岬見張所はアメリカ軍上陸当日の8月7日夜に食料がなくなり、現地の果実で食いつなぐ状況であったようです(五味川 56~58頁)。補給のタイミングが悪かったのでしょうか。「呂33」から一定の食糧援助は受けたと思いますが、その後は北岸の主力部隊ですら満足に補給が受けられない状態が続いたことから、おそらく最期まで新たな補給が得られなかったのではないかと推測されます。食料を囮とした計略にかかりやすい要因が揃っていたのでしょう。
 この計略を立案したのは、ハンター岬を見張所の設置場所として助言したクラーク神父でした(ロード 106頁)。クラーク神父は、初めは連合国軍への積極的な協力を避けていたのですが、他の教会関係者が日本軍に処刑され、日本軍が畑を荒らすなど現地住民に危害を及ぼすに至って、島外へ撤収するコーストウォッチャーの業務を引き継ぐと、10月半ばには現地住民の武装組織化も始めていました。クラーク神父がその最初の攻撃目標に選んだのが、彼自身のよく知るハンター岬見張所だったのです。協力を拒んだ酋長もいたようですが、ジョー・ツルカイア酋長が作戦に同意して実行部隊になりました。ただし、別のコーストウォッチャー協力者だったケン・ダーリンブル・ヘイは、自分がハンター岬攻撃の発案者で、マライタ島出身の現地人スカウトが実行部隊の中核だと述べています(ヘイ 126頁)。

 そのほかの多くの見張所の最期は詳細がわかっていません。前掲の「呂33」経由の報告によると、8月13日時点で判明したハンター岬以外の見張所の備蓄食料・飲料水も7~17日間分に過ぎなかったといいます。このことから、五味川純平は、各見張所は孤立したまま補給も受けられず、守備兵は餓死したと推測しています(五味川 56~58頁)。ハンター岬見張所と同様に、連合国側に協力した現地住民の襲撃により全滅した事例もあったかもしれません。

 ソロモン諸島のような多島海域に見張所による早期警戒網を敷くというアイディアは、悪くない狙いに見えます。ですが、実際には制空権を失った状況において、敵地近くに分散した小さな拠点へ補給を継続することは困難でした。かといって高温多湿の環境で、大量の食糧をあらかじめ備蓄することも容易ではないでしょう。挙句の果ては救出すら非効率的で、放置したまま餓死するに任せるという非情な選択を採ることになっていきます。
 この種の構想が機能するには、現地住民から食料供給などの協力が得られることが必要条件だったように思えます(日本兵が米飯なしで我慢できるのかという問題はあります。)。逆に現地住民が本気で攻撃すれば、ハンター岬見張所の例のように、わずか10名前後の見張所の兵力では自衛することもできません。
 ニューギニアやソロモン諸島におけるコーストウォッチャーの活用は、オーストラリア軍が戦前からコーストウォッチャー網の整備を計画し、一帯を自国の庭として農園経営や布教活動、現地人警察組織等を通じて現地住民と密接な関係を築いてからこそ有効にできたもので、占領軍である日本軍がにわかに同じことをしようとしても実現できなかったといえる気がします。

<参考文献>
ウォルター・ロード(著)、秦郁彦(訳) 『南太平洋の勇者たち-ソロモン諜報戦』 早川書房、1981年。
ケン・ダーリンブル・ヘイ(著)、松永秀夫(訳) 「私だけが知っているガ島血戦始末」『丸エキストラ版 第80集』 潮書房、1978年。
五味川純平 『ガダルカナル』 文藝春秋〈文春文庫〉、1983年。
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(1) ポートモレスビー・ガ島初期作戦』 朝雲新聞社、1968年。
同上 『戦史叢書 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪回作戦開始まで』 同上、1971年。
同上 『戦史叢書 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』 同上、1975年。
John L. Zimmerman, “Marines in World War II Historical Monograph : The Guadalcanal Campaign” USMCR Historical Section, Division of Public Information, Headquarters, U.S. Marine Corps, 1949.

生存報告

まだ息しています。息しているだけ。
お仕事、家事、子育て、色々しながら戦史してる方すごいなあと。

鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第5章)

5.ベンガル湾のつわもの【暫定版】

 夏草や兵どもが夢の跡
          -松尾芭蕉-

【本記事は暫定版です。内容に不十分な点があることが判明しているため、なるべく早期に改訂するつもりです。】

 1945年、総崩れになりつつあるビルマ戦線の西部に、日本陸軍第54師団が踏みとどまっていました。コードネームである通称号は「兵(つわもの)」。一般的な3単位編制の歩兵師団で、機甲戦力として偵察部隊である捜索第54連隊を有しています。
 捜索第54連隊も標準的な編制の捜索連隊で、騎兵第10連隊(姫路)を母隊とし、新設当初は連隊本部・乗馬中隊・乗車中隊・装甲車中隊各1個から成っていました。南方派遣時に連隊本部と乗車中隊2個(第1・2中隊。速射砲各2門・重機関銃各2丁)、軽装甲車中隊2個(第3・4中隊。九七式軽装甲車各8両、うち砲装備各3両)基幹に改編強化され、通信小隊も付属したようです。人員484人、トラック45両と乗用車7両を保有し、完全自動車化されていたように思われます。

 1944年1月以降、第54師団は第28軍隷下、ビルマ西部ベンガル湾沿岸のアキャブ方面に配備されます。捜索第54連隊主力(中村忠雄中佐。本部と乗車第2中隊)は、配属部隊若干とともにミエボン地区(アキャブ東)を守備。乗車中隊・装甲車中隊各1個は師団直轄等に召し上げ。白井中隊長率いる第3中隊(装甲車中隊)は、歩兵第121連隊(長澤貫一大佐。2月下旬以降は馬場進大佐)に配属され、ベンガル湾に浮かぶラムレ島へ一時進出しますが、1944年9月に大陸本土沿岸に戻ってタンガップ(タウンガップ、タウングプTaungap)地区防衛を任としました。
 タンガップは、ビルマ中心部からアラカン山脈を越えて続く自動道がベンガル湾に出る地点で、制空権喪失により海上交通が遮断された日本軍にとって、重要な兵站拠点でした。また、飛行場もありましたが、航空機は全く配備されていなかったようです。
 第3中隊は、タンガップ北方のサビンという村を中心に65kmもの広大な海岸線の守備を担当しました。いくら機動力があると言っても人員40名余では明らかに兵力不足ですが、空挺部隊などに対する警戒が中心で、本格的な侵攻に際してはタンガップに後退する計画だったといいます。これを捜索連隊らしい騎兵的な任務だと喜ぶ者もあったようです。

 1945年2月15日、タンガップから85km北のメイへ補給品を輸送中の独立自動車第55大隊の車列が、敵の上陸部隊に出くわして逃げ帰って来ました。敵兵力は最大4万人の大軍とも報告されました。ところが、タンガップから歩兵1個大隊と捜索第54連隊第3中隊が反撃に出動したところ、実はイギリス軍40人程度の偵察上陸と判明します。イギリス軍は日本軍の反撃を受け、すぐに撤収しました。大騒ぎをした独立自動車第55大隊の士官は、回想で部隊の醜態を恥じています。

 1945年3月、イギリス軍は反攻作戦の一環として、タンガップの攻略に着手します。3月15日(3月12日?)、第4インド歩兵旅団(3個歩兵大隊)と第146機甲連隊A中隊(M3リー中戦車装備)が、タンガップ北方のレトパンLetpanに上陸。そのうち尖兵のフロンティア・フォース・ライフル連隊2/13大隊の1個中隊は、夜のうちに進軍してタンガップ=メイ間の道路の屈曲点を制する地点に達しました。
 日本軍はすぐに上陸に気が付き、撃退を試みます。タンガップ地区隊唯一の機甲戦力である捜索第54連隊第3中隊は、機動反撃を命じられ、中隊主力(指揮班及び第1小隊の軽装甲車5両)で出撃しました。無謀な出撃とも思えますが、2月15日と同様に偵察上陸で簡単に撃退できると期待したのかもしれません。タンガップから北上した装甲車隊は、上記のイギリス軍尖兵中隊の封鎖地点に到達しますが、準備不十分だったのかイギリス軍は素通りさせたようです。
タンガップの九七式軽装甲車 3月16日の午後、イギリス軍は第146機甲連隊A中隊を先頭に本格的に侵攻を開始し、日本側の捜索第54連隊第3中隊主力とすぐに遭遇します。日本側の装備車両は2人乗りの豆戦車である九七式軽装甲車(イギリス軍は九五式軽戦車と誤認)で、イギリス軍のM3中戦車にはとても敵わず、南のタンガップ方向へ高速で逃げ出しました。しかし、撤退した先には、フロンティア・フォース・ライフル連隊の尖兵中隊が待ち構えており、携帯対戦車火器PIATを次々と発射して、今度は素通りさせてくれませんでした。進退窮まった捜索第54連隊第3中隊主力は、引き返してイギリス軍との接触を断った後、車両を放棄して徒歩で包囲を脱出しました。追撃してきた英軍戦車が発見したのは、放棄された軽装甲車5両(うち3両は自焼した残骸)だけで、乗員の姿はどこにもありませんでした。(画像はタンガップ地区でイギリス軍に捕獲された九七式軽装甲車。砲装備なので中隊長車か第1小隊長車である。)
 このとき、イギリス軍は遺棄された日本軍装甲車の中から、九七式軽装甲車の前でポーズをとった日本軍戦車兵の写真を押収しています。この写真は、吉川和篤『日本の豆戦車写真集』(イカロス出版、2016年)の中表紙に掲載されている白井装甲車隊の車長の写真と同じアングルで撮影されたものです。捜索第54連隊第3中隊は内地出発前に兵庫県の青野ヶ原で待機中、形見となるように全員が一人ずつ装甲車の前に立って記念撮影したのだそうです。なお、このときに写真のネガを内地に残すはずが、誤ってネガまでビルマに持っていってしまったとのことで、現存するのは貴重な一枚と言えそうです。

 こうして、捜索第54連隊第3中隊は、装甲車両の主力を失いました。ただし、後方の警戒を命じられた第2小隊(軽装甲車3両)は離脱に成功し、戦闘を継続しています。砲兵牽引車の代わりとして野砲などの陣地転換にも多用されたようです。タンガップ地区隊はイギリス軍に圧迫されて次第に後退し、1945年4月末には第28軍直轄となってビルマ東部のペグー山地へ退却せよとの命令を受けます。第2小隊の軽装甲車3両はアラカン山地を突破してイラワジ河畔のパドン南方まで至り、師団の転進を援護するため後衛戦闘に活躍した後、ついに5月14日に軽装甲車を処分しました。その後は車載重機を主力兵器として戦います。第3中隊の残存兵力は、歩兵第121連隊の黒田先遣隊(集成歩兵1個中隊)に所属して転進の先頭を進み、厳しい退却戦を続けることになります。(この章終わり

追記
日本側の参戦中隊が、第4中隊ではなく第3中隊であったので訂正(2019年5月2日)。

今年のこと

あけましておめでとうございます。
昨年も大した本数の記事はかけませんでしたが、
今年は鋼棺戦史を少しでも書くのと、できれば紙に何か書けるといいよねと思っています。

事務連絡
大砲の件でメールを頂いた方、返信しました。
フリーメールからなので迷惑メールフィルターに引っかかるかもしれません。
届いてないときには、再度フォームからメールいただければ幸いです。

The Lost Evidence Photo published 2 years before Amelia Earhart's disappearance

A History Channel special, "Amelia Earhart: The Lost Evidence" say a photograph found in the National Archives taken in 1937 at Jaluit Atoll showed a woman resembling Amelia Earhart.

However the photograph was first published in Palau under Japanese rule in 1935, in a photo book; Motoaki Nishino (西野元章) , "Umi no seimeisen : Waga nannyou no sugata." (海の生命線 我が南洋の姿) , Palau: Futabaya Gofukuten, 1935. So the photograph was taken at least two years before Amelia Earhart disappeared in 1937 and a person on the photo was not her.

海の生命線我が南洋の姿44頁
(Motoaki Nishino (西野元章) , "Umi no seimeisen : Waga nannyou no sugata" (海の生命線 我が南洋の姿) , Palau: Futabaya Gofukuten, 1935, p. 44; from National Diet Library Digital Collection)

According to original caption in Japanese, the photo taken at port of Jabor town in Jaluit Atoll. The steam ship on the right of the photo is a Japanese navy survey ship ''IJN Koshu'' (膠州) . The ship participated in searching mission for Amelia and arrived Jaluit Atoll in 1937, but the ship also arrived there sometimes since 1935.

Postscript (2017-07-12)
IJN Koshu (膠州, Jiaozhou Bay) : ex. German cargo ship launched in 1904, seized by Japan in WW1 at Tsingtau. The ship renamed Koshu, used as a transport ship and a survey ship by Imperial Japanese Navy. The ship worked for survey mission of the South Pacific Mandate in 1930s.
IJNkoshu.jpg (IJN Koshu)

Around 1937, apart from IJN Koshu, there were at least two Japanese ships named SS Koshu Maru. "Maru" (丸) is a word often used end of Japanese ship's name, but not used for regular IJN naval ship's name.

Koshu Maru (杭州丸, Hangzhou) : cargo ship launched in 1911, initially named Daiun Maru (大運丸), renamed Koshu Maru in 1913.
osk_koshumaru.gif (SS Koshu Maru, launched in 1911)

Koshu Maru (光州丸, Gwangju) : passenger cargo ship launched in 1937, initially named Teishu Maru (定州丸) , renamed Koshu Maru in 1940.
chosen_yusen_teishu_maru.jpg (SS Koshu Maru, launched in 1937 as Teishu Maru)

日本語の詳細版記事 More detailed version post : アメリア・イアハートの写真説は誤りであること (2017-07-09 in Japanese)

アメリア・イアハートの写真説は誤りであること

 数日前に、女性飛行士アメリア・イアハートAmelia Earhartが日本軍の捕虜になっていたことの証拠写真が発見されたというニュースがありました。しかし、検証したところ、問題の写真は遭難事故以前に撮影されたもので、当該仮説は誤りだと思われます。
* Summary of this post in English is here : The Lost Evidence Photo published 2 years before Amelia Earhart's disappearance (2017-07-11)

『伝説の女性飛行士イアハート、日本軍の捕虜に? 新たな証拠写真』AFPBB News:2017年7月7日
「ヒストリー・チャンネルのドキュメンタリー番組「アメリア・イアハート:失われた証拠(Amelia Earhart: The Lost Evidence)」は、2人は生き延びて、日本軍の捕虜になった可能性があると指摘している。」「番組が証拠としているのは、米国国立公文書館(US National Archives)で見つかった不鮮明な白黒写真だ。そこに写っているのが、拘束後にマーシャル諸島(Marshall Islands)にいる2人の姿だという。」

海の生命線我が南洋の姿44頁 問題の米国国立公文書館で発見された写真は、上記リンク先AFP記事のキャプションによればマーシャル諸島ジャルート環礁(ヤルート)で1930年代撮影となっていますが、この写真はもともと1935年(昭和10年)10月に日本委任統治下のパラオで出版された西野元章『海の生命線 我が南洋の姿』(二葉家呉服店、1935年)という写真集に掲載されているヤルート島ジャボール港の写真です(右画像は国立国会図書館デジタルコレクションPID:1223403の同書44頁から引用)。
 したがって、問題の写真の撮影日時は出版された1935年以前で、イアハート遭難事件の起きた1937年よりも前の写真ということになります。遭難後のイアハートが写っているということはありえません。

 なお、上記AFP記事で「波止場の奥に写った「コウシュウマル(Koshu Maru)」という日本船」と書かれている、写真の右に写っている汽船は日本海軍の測量艦「膠州」で、1937年7月にヤルートに寄港してアメリア・イアハートの捜索にも協力した船です。しかし、アジア歴史資料センターによりインターネット公開されている「膠州」の航泊日誌(JACAR Ref.C11083153700、C11083154100、C11083154500)を見ると、以下の通り、イアハート機の捜索以外でもヤルートに度々寄港しています。
・1935年(昭和10年)1月1日~1月8日、ヤルート在泊
・同年5月19日~5月29日、ヤルート在泊
・同年7月26日~8月4日、ヤルート在泊
・同年9月2日~9月6日、ヤルート在泊
 アジ歴の航泊日誌には欠落があるので断言はできませんが、問題の写真は上記の日時のいずれかで撮影された可能性があります。左奥に写っている汽船の船名がわかれば、撮影日付特定の手がかりになるのではないかと思いますが、残念ながら手元資料では船名までわかりませんでした。
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山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
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Twitter:baron_yamaneko

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